酔客が身近な環境とロックミュージシャンへの憧れと
 中高生から酒とドラッグにハマる  

違法薬物やアルコールに依存した経験があり、今は東京・山谷地区で生活困窮者らの支援に取り組んでいる田中健児さんが家族会で講演しました。実家が寿司屋で酔客が身近だった田中さんは少年の頃から酒を飲み始め、ロックミュージシャンへの憧れからドラッグを使い始めます。
岩永直子 2023.07.24
誰でも

違法薬物、アルコール、ギャンブルなどにハマり込んだら人生終わり?

そんな誤解を抱いている人も多いかもしれませんが、依存症は病気であり、適切な支援や回復プログラムを受け続ければやり直すことができます。

かつて違法薬物とアルコールに依存し、現在は東京・山谷地区で活動するNPO法人「友愛会」で生活相談員として生活困窮者、累犯障害者・高齢者などの支援に取り組んでいる田中健児さん(55)もその一人。

自身の経験を振り返りながら依存症の回復に必要なことを語る田中健児さん(撮影:岩永直子)

自身の経験を振り返りながら依存症の回復に必要なことを語る田中健児さん(撮影:岩永直子)

7月8日に依存症の回復を支援する一般社団法人「カハナ」インテグレーションセンター上野主催の家族会で、田中さんは自身の辿ってきた道を振り返りながら、回復のために何が必要なのかを講演しました。

素晴らしい内容で依存症以外の人の人生にも役立つ言葉がたくさん散りばめられていたので、田中さんとカハナの許可を取って、この講演の詳報を前後編に分けて掲載します。

***

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高校生から薬物やアルコールに依存

山谷地区では路上生活者や日雇いの労働者がとても多く、最近は刑務所を出て行き場のない累犯、つまり、何度も刑務所とシャバを往復している高齢者や障害者の方も多く暮らしている地域です。僕はそういった方々の生活支援をしているNPO法人「友愛会」で生活相談員をやっています。

早い話、何でも屋です。金銭管理、服薬管理、通院の同行、トコジラミの駆除、ゴミ屋敷の清掃、葬儀の手配、火葬の立ち会いなど、なんでもやります。

今の仕事の前は、アディクション(依存症)に特化した精神科クリニックで、薬物やアルコール、ギャンブル、性的逸脱行動(盗撮、痴漢)など、依存症の治療プログラムを行うデイナイトケア担当のスタッフとして働いていました。 

僕は医者でもないし、看護師でもないし、精神保健福祉士や社会福祉士などの国家資格は持っていません。

依存症の当事者です。依存していたのは薬物とアルコールです。高校生の頃から大麻とかアルコール、そのほかいろんな薬物をやるようになりました。約20年ぐらい乱用していました。

10代の終わりに、1年数ヶ月の短い間、アメリカのロサンゼルスに観光ビザで入国して、不法労働の寿司職人としてしばらく働いていたことがあります。その時、現地でももちろん違法薬物のコカインをやっていました。

おかげさまで今は仲間と一緒に止めて18年になります。今でもやりたいですけれどもね。

実はアメリカにいた時に、大麻の栽培と所持で現地の警察に捕まったことがあります。たまたまその時、持っていたコカインを全部使っちゃった後だったので、家宅捜索されても見つからなかったんですよ。全部やっといてよかった(笑)。

コカインだと重罪なので、アメリカでも刑務所に服役することになると思いますが、ラッキーなことにその場で放免されました。

精神科の病院に入院したことはないのですが、今思うと、当時、被害妄想のような症状が出ていたようです。薬物が手に入らない時は手っ取り早く合法薬物、アルコールをめちゃくちゃに飲むようになっていました。

アルコールも薬物と同時にやめて、お陰様で18年になります。幸い、重症化する前に止めることができたのだと思います。

酒や酔客が身近だった少年時代

僕は荒川区で生まれました。下町育ちです。実家は寿司屋です。

中学生の頃はスポーツ少年でした。陸上部で駅伝の都大会で優勝したこともあって、真面目に取り組んでいました。

アルコールは中学、高校から飲み始めました。実家は寿司屋でしたから、お酒や酔っ払いが身近でした。

店に来るお客さんは、近所で水商売をやってる人、土木作業員、職人、ヤクザ、ボクサー、流しのお兄さんなどいろいろ。下町でよくある、1階がお店で2階が住まいになっている店です。 

実家の寿司屋の店内で食事をして、酔客には幼い頃から慣れ親しんでいた(田中さん提供)

実家の寿司屋の店内で食事をして、酔客には幼い頃から慣れ親しんでいた(田中さん提供)

寿司屋のカウンターでお客さんと一緒にご飯を食べていました。だから常に隣に酔っ払いがいるような環境で育っています。

高校時代から薬物も

陸上競技をやっていたのですが、中学3年生ぐらいで大きな転機がありました。ロックが好きになったんです。ビートルズとかローリングストーンズとか1960年代とか70年代のドラッグカルチャーに影響を受けた音楽が好きになったんです。

ロックバンドでギターを弾く田中さん(田中さん提供)

ロックバンドでギターを弾く田中さん(田中さん提供)

それで当然、薬物に興味を持ちまして、初めて見たロックコンサートはショーケン(萩原健一さん)でした。大麻で捕まったことがありますが、かっこよかったです。

高校に入ってから自分でもロックバンドを始めました。また、先輩に紹介された居酒屋でアルバイトも始めました。その居酒屋が僕より少し上の年代のヒッピーとかフーテンの生き残りのような人が集まっていたんです。

普通の赤提灯なんですが、座敷では大麻をバンバン吸っているような店でした。

「ラッキー!」と思いましたよ。いつかやってみたかったので。

子供の頃からドラッグをやっているミュージシャンに憧れていたんですよ。ですから居酒屋の座敷で大麻が回ってきても、全く抵抗感なく受け入れていました。そこで躊躇する高校生もいるかもしれませんが、僕は生まれ育った環境の影響もあって、迷いなく受け取って吸いました。

大麻を吸うと音楽がすごく綺麗に聞こえるんです。五感が研ぎ澄まされる感覚もあって、すごく音楽やアートが好きだった僕にはぴったりでした。高校2年の時に始めて、すっかりハマりました。

そうすると、陸上少年だった僕が、こうなりました。

薬物や音楽を始めてから身なりも変わっていった(田中さん提供)

薬物や音楽を始めてから身なりも変わっていった(田中さん提供)

これは大麻を吸いながら自分で色を塗ったギターです。

大麻を吸いながら自分で色を塗ったギター(田中さん提供)

大麻を吸いながら自分で色を塗ったギター(田中さん提供)

大麻を吸ってキマった状態で何時間もこれを描いていました。僕の母は「何やっているの?」と言っていましたね。

大麻を吸っていると何よりも時間が変容するんです。ビートルズの数分間の曲が数時間もの壮大なドラマに感じられたりする。それが面白くて、何度か先輩から大麻を分けてもらったりしました。

みんなで集まって少しもらっているうちは良かったのですが、自分で買うようになると、使う頻度や回数や量が増えます。一生懸命アルバイトした給料で、高い金を払って、粗悪な大麻を買ったりしていました。

それでも自分がロックミュージシャンになっているつもりで、はまっていました。

本場のドラッグをやってみたい アメリカで寿司職人に

高校卒業する時に、僕は進学も就職もしませんでした。進学校だったのでそんな生徒は僕一人でした。

卒業して1年ぐらいアルバイトをしながらフラフラしていたら、たまたまアメリカで寿司屋をやらないかと、ある知人から声をかけてもらいました。

僕は英語も喋れないし、寿司も握れなかったんですが、本場のドラッグをやってみたいという一心で「やるよ」と答えました。決めてから出発するまで2ヶ月ぐらいでパスポートを取って、アメリカのロサンゼルスのロングビーチというところに行きました。

1980年代半ばの当時、カリフォルニアロールが流行り始めた頃でした。アメリカで寿司職人をする話に乗っかって向こうに行って「僕は英語も喋れないし、寿司も握れないんです」と言ったら、日本人のオーナーに「お前、何しに来たんだ?」と言われました。

それでも面倒を見てくれたんです。一から寿司の握り方を教えてくれて、オーナーの家に住み込みで働きました。

そうして本場のドラッグにやっとめぐり会えました。信じていれば夢は叶うんだなと思いました(笑)。

全然違いましたね。本場のドラッグは。

1980年代半ばですから、コカインとか、クラックというコカインを精製した、安く、効果は短いのだけれども強力に効くドラッグが流行っていました。ダウンタウンに行くと、小学生ぐらいの子供たちが使っていましたね。

アメリカでは夢みたいに簡単にドラッグが手に入りました。

僕が働いていたお店の隣がフライドチキン屋だったのですが、そこの店員が売人でした。フライドチキンを買いに行って、チキンとポテトとコカインを買う。それぐらい簡単に買えました。

大麻も吸っていたのですが、仕事前に大麻をキメて寿司屋のカウンターに立つと、だるくなるのですね。だるくなってきたら今度は「アッパー」と呼ばれる気分を上げるコカインを吸い直して店に出る、ということを繰り返していました。

パンツ一丁で屋根の上に  警察に捕まる

アメリカ人のルームメイトが見つかりまして、こいつがまたなぜか売人みたいな奴でした。ドラッグをいくらでも持っているんです。これもまた「ラッキー」と思いました。

そのルームメイトが保険金詐欺のようなことをやりまして、1万ドルぐらい儲かったことがあります。当時の僕の給料は月1000ドルです。1年分ぐらいが手に入った。

その金で大量のコカインといわゆるハシシと呼ばれる大麻樹脂を買ってきて、朝から晩までやっていました。そうなってくると止まらないのですね。いくらでもあるし、どのドラッグも「耐性」が出てきて効かなくなってきます。

2〜3日やめたらまた効くようになるのに、それができない。朝から晩までやるようになりました。

その頃、現地の警察に捕まりました。パンツ一枚で屋根の上を歩いていて、そこに運悪くパトカーが通りかかって、「降りてこい」と言われたのですが、ドラッグがキマッているので意識が混濁し、ビルの10階から下を見ているような感覚なんです。怖くて降りられませんでした。

そこで警察に引き摺り下ろされて、頭に銃を突きつけられて、手錠をかけられて、栽培していた大麻を押収されました。でも冒頭で話したようにコカインは出てこなかったので、その場で放免です。

大麻だけだと、現地では自転車の二人乗りぐらいの微罪程度の感覚なんでしょうか?夜中に英語も喋れない日本人を捕まえても面倒だと思ったのか、パトカーの中に連れ込まれて懐中電灯で顔を照らされて瞳孔を調べられたような曖昧な記憶はありましたが、結局、連行されず警察は帰ってしまいました。

僕は翌朝、借りていた家の裏にあるゴミ捨て場で目が覚めて、悪い夢を見たのだと思いましたが、部屋に戻ると玄関のドアを蹴り破られ、家の中を捜索された痕跡があったので現実に起きたことだと分かりました。 

それから、人を見ればお巡りさんに見えるし、車を見ればパトカーに見えるし、だんだんと生活しているのが怖くなってしまいました。もうドラッグはやめようと思うのですが、でもやっぱり次の日に買いにいくのです。

お世話になった寿司屋のオーナーや家族にも迷惑をかけるようになっていたし、「もうこんなことをやっていちゃダメだ」と思っているんです。けれども、休憩時間に隣のフライドチキン屋に行って、また1グラム、80ドルの給料の10分の1ぐらいのドラッグを買ってしまいました。

帰国して、職を転々

永住権を申請して、アメリカで暮らすことが夢だったのですが、それもダメになりまして、21歳の時に帰国しました。1年半ぐらいの滞在でした。

帰ってきたことは近所には内緒にしていましたよね。同級生は盛大に送別会を開いてくれたし、「もう帰ってきたのか」と思われるのがかっこ悪くて。湘南にアパートを借りて、地元からは離れました。

それからは定職にも就かずに職を転々としました。浅草とかのお寺の屋台で焼きそばとかを売っているテキ屋やバーテンダーもやりました。米軍基地の引っ越し作業とか、民族音楽ライブハウスの店員、早朝のビル清掃、吉祥寺にあった伊勢丹の便所掃除もやっていました。

たぶん20回以上、転職をしました。だから今でも履歴書を書く時に、職歴が2ページ以上になるんです。

薬物はなかなか手に入らなかったので、メチャクチャにお酒を飲むようになったんです。日本ではお酒は手っ取り早くコンビニで買えますし、いくらでも手に入ります。

他には手に入る時は大麻を吸ったり、当時流行っていた合法ドラッグを通信販売で買ったりもしていました。

これは19歳の時の写真です。この状態でアメリカに行ったんです。可愛いですよね?

19歳の時の田中さん

19歳の時の田中さん

これがパスポートに貼った写真で、生まれて初めての海外旅行と一人暮らしと自分で働いて生活することをいっぺんに体験し始めた時です。

で、アメリカで警察に捕まって帰ってきてからは、こうなりました。

帰国して数年後の田中さん(田中さん提供)

帰国して数年後の田中さん(田中さん提供)

これで湘南のアパートに住み、茅ヶ崎の海岸でビールを飲んで、職を転々としていたわけです。その後は高円寺に引っ越しました。ちょうどオウム真理教が全盛期を迎えていた時で、自転車に乗っていると1日に3回ぐらい警察に職務質問をされました。

帰国して数年後の田中さん(田中さん提供)

帰国して数年後の田中さん(田中さん提供)

薬物の後遺症? 被害妄想による行動

さんざん酒を飲んでいて、今思うと薬物の後遺症もあるのでしょうけれども、あの頃の自分はおかしかったと思います。

田中さんが独学の中国語で書いたゴミ出しのルール

田中さんが独学の中国語で書いたゴミ出しのルール

これはゴミの出し方のルールを僕が中国語で書いた紙です。僕のアパートの前のゴミ捨て場で、中国人らがゴミを捨てていくのですが、収集日や不燃ゴミと可燃ゴミの分別などが守られていないとそれが自分に対する嫌がらせだと感じてしまう。

そのゴミを自分の部屋に持ってきて、中身を全部調べて、住所が書いてあるものがあると、捨てた人の家の前に全てぶちまけたりしていました。

中国語で書いた手紙が出てきたので、「ああこの人は中国人なんだ。ゴミのルールが読めないのだな」と思って、図書館に通って独学して中国語でゴミのルールを書いたんです。でもA3のコピー用紙にコピーして町中に貼りまくりました。

僕は中国語ができないのです。でも中国語ができる人に見せたら、だいたい合ってると言われました(笑)。

バーテンダーになって酒に溺れる日々

その頃、バーテンダーもやっていました。自分が飲みたいからなったんです。メニューにないような高い酒を勝手に仕入れて、カウンターの下に隠れて、テイスティング(試飲)と称して朝から飲みまくっていました。その頃は夜11時以降の記憶はないですね。

泥酔して自分のアパートでお酒とトイレマジックリンを間違えて飲んだこともありました。トイレ、居間、お風呂とそこらじゅうに酒を置いていたんです。容器を持って蓋を開けて飲んだら、トイレマジックリンだった。

自分でガブガブ水を飲んでゲーゲー吐いて胃洗浄のようなことをしました。しばらく胃が痛かったですが、なんとかなりました。サンポール(塩酸を使った洗剤)だったらやばかったですね。飲むんだったらトイレマジックリンの方がまだいいです(笑)。

お客さんの障害がある子供との交流をきっかけに福祉系に

バーテンダーの仕事をしていた時に、脳性麻痺のお子さんがいるお客さんがいたんです。体にも障害があったのですが、その女の子はなぜか僕を気に入ってくれて、ご両親が毎週日曜日のランチタイムに、車椅子でその障害のあるお子さんを連れてきていました。

「なんかこの子、お兄さんのことを好きみたい。昼休みに児童館とか行って遊んであげてくれる?」と頼まれたんです。休憩時間は長かったので、車いすを押して児童館に行ったりしていました。

そんなことをやっているうちに、「あなたこの仕事向いているんじゃないの?」とお母さんに勧められて、知的障害児のガイドヘルパー(外出につきそう支援者)の講習を受けたんです。

それで障害児ボランティアになったのですが、自閉症の子供が多かったですね。自閉症の子供を連れて、遊園地とか公園とかプールに行って、ご両親のところに送り届けるボランティアやアルバイトをしばらくやっていました。

それが福祉系の仕事を始めるきっかけでした。

たまたま精神科クリニックの就職面接に受かる

在宅のホームヘルパーも始め、全く興味がなかったのですが、たまたま精神科のクリニックの面接を受けたら受かっちゃったんです。無資格で経験もないのに。2004年のことです。

当時としては数少なかった、依存症に特化した通院治療「デイナイトケア」を実践している都内の精神科クリニックでした。

その頃はフロアが荒れていた頃で、元ヤクザの患者さんとか、覚せい剤の患者さんとかが暴れていて、それを取り押さえる男性職員が必要だったのですね。

それでなぜか採用されて、よりによって依存症担当になったんです。

その時は僕はまだ酒も薬もやっていました。それは内緒にしていたわけなのですが、なぜか患者さんにはバレるんです。

一言も言っていないのに、エレベーターの中で二人きりになると、「健ちゃん、薬やってたでしょ?私たち、わかるのよ」と言われました。それから少しずつ、ミーティングで自分の話をするようになっていきました。

患者さんと僕は「患者さんとスタッフ」というよりも、仲間だったんですよね。

だから、「田中さんは診察を受けにきて、間違って面接を受けちゃった」と言われていました。

働き始めた頃は、昼間はお酒をやめさせる仕事をして、夜はバーテンダーのアルバイトを続けていました。要するにあまり真剣にやっていなかったんです。精神科の仕事も。バーテンダーの仕事や引っ越し屋の仕事と、自分の意識としては変わらなかったです。

「面白そうだからやってみようかな」ぐらいの思いです。

でもだんだんとちゃんと患者さんと向き合うようになっていきました。酒と薬で人生ボロボロにしてダメになっている人とか、真剣にやめようと頑張っている人とかに出会い、自分もこの仕事に真剣に取り組まなくちゃダメだと思い始めたんですね。

それで、自分も仕事が終わった後、自助グループに行くようになりました。

普通、スタッフが患者さんを自助グループに行くよう促すのですが、僕は患者さんに連れていってもらったんですよね。「一緒に行こうよ」と言われて。それが2005年のことでした。その時に酒も薬もやめまして、18年になります。

(続く)

依存症各種、精神疾患、知的障害などを支援している一般社団法人「カハナ」インテグレーションセンター上野のウェブサイトはこちら

田中さんが山谷での本業の傍ら、ボランティアスタッフ「リカバリーサポーター」と理事をつとめているY-ARAN(横浜依存症回復擁護ネットワーク)のウェブサイトこちら。 

【田中健児(たなか・けんじ)】NPO法人「友愛会」生活相談員、Y-ARAN(横浜依存症回復擁護ネットワーク)」理事

1967年、東京都荒川区生まれ。子供の頃から実家の寿司屋で酔客に囲まれて育ち、中学生から酒を飲むように。ロックミュージシャンに憧れて高校生から大麻を吸い始める。87年、19歳の時にアメリカ・ロサンゼルスで寿司職人として働き始め、現地のドラッグカルチャーにハマる。21歳で帰国した後は職を転々としながらアルコールや薬物への依存が続いていたが、知的障害児の支援や、訪問介護の仕事を経て、2004年、36歳で依存症に特化した通院治療「デイナイトケア」を実践している都内の精神科クリニックに初めての就職 。依存症担当になったことをきっかけに、自身も自助グループに通い始め、05年から、アルコールと薬物を断つ。

クリニックでは、芸術行動療法「ボクシング・プログラム」、性依存症治療・性犯罪再犯防止プログラ厶、 セクシャル・マイノリティ・グループなどの立ち上げに携わる。

09年にクリニックを退職し、同年から東京・山谷地区で活動する「NPO法人友愛会」の生活相談員として生活困窮者、累犯障害者・高齢者などの支援に取り組んでいる。

17年からリカバリー・パレード実行委員、 18年から「Y-ARAN(横浜依存症回復擁護ネットワーク)」理事、20年からASK認定依存症予防教育アドバイザー。

***

ニュースレター、今回からアルコールと薬物の依存症から回復した田中健児さんの体験談を前後編に分けてお伝えします。後編は回復に必要だった3つのことについて田中さんが語ります。読み逃しのないように、ぜひご登録をお願いします。

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