「明るい病人がいてもいいじゃないか」 ある日突然、難病と診断された私が伝えたいこと
誰もが知るインターネット企業で、エンジニア向けの企画運営や広報活動をする専門家として活躍していた櫛井優介さん。
体調不良を感じていたある日突然、難病と診断される。
病気を機に医療系のベンチャー企業に転職する「明るい患者」、櫛井さんの闘病経験を聞いた。
櫛井優介さん。5月からは医療系の企業で働いている(撮影・岩永直子)
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頻尿で泌尿器科に行ったら肺に影が発覚
幼い頃からボーイスカウトに熱心に取り組み、大人になるまで健康そのものだった。
アニメ製作会社に就職し、三井物産、ライブドア(現・LINEヤフー株式会社)と転職。ディレクターとして大きな責任を抱えるようになると、ストレスで十二指腸潰瘍を繰り返したりはしていた。それでも大きな病気はすることはなかった。
イベントで壇上に立つ櫛井さん(右)(櫛井優介さん提供)
体に異変を感じたのは、2022年11月下旬。トイレに頻繁に起きるようになって、泌尿器科を受診した。
CTを撮って膀胱炎だろうと診断されたが、その医師がこう告げた。
「それより、これが気になるんですよね」
CTの画像で肺の影を指差した。
「これは専門医に診てもらった方がいいと思いますよ」
日を改めて同じ病院内の内科にかかると、「間質性肺炎」と言われた。
「ただ、うちでは肺の専門家がいないから、他の病院で診てもらった方がいい」と二つの病院を提示されたが、行ったことのある病院を選ぶと診てもらえるのは1週間後という。
医師は「そんな悠長なことは言ってられません」と、初診でも長く待てば診てもらえる順天堂大学に行くように強く勧めた。
肺なんて自覚症状は全くないのに、そんなに重い状態なのかと驚いた。スマホで「間質性肺炎」を検索してみると、主に高齢者がなり、そのまま亡くなってしまうこともあると書かれている。
「ネットで間質性肺炎の説明を読むと、『余命』という言葉が出てくる。えー、なったら余命1年とか言われる病気なの?と急に死を感じて、すごくビビりましたね」
子供は当時、幼稚園の年長生と、小学校3年生。妻は専業主婦だし、ここで死ぬわけにはいかない。
「家族のことを考えても、どうしたらいいんだろうと途方に暮れました。でも仕事を考えたらやり残したことはないなとも思って淡々としていると、妻から『もっと足掻きなさいよ』とハッパをかけられました(笑)」
検査入院で難病と診断
翌日、順天堂大学の呼吸器内科にかかると、「肺がんではないですが、肺炎も色々な種類や原因がありますから、検査入院をしましょう」と言われた。
コロナ禍の真っ最中の呼吸器内科。ベッドは空いていない。
12月中旬に検査入院をすることになった。
「入院するまでは、絶対にコロナにはかからないでくださいね。コロナにかかったら緊急搬送になりますからね」と主治医に厳しく注意された。
しかし運悪く、入院の1週間ほど前に自分以外の家族全員、コロナに感染。家庭内隔離を徹底し、乗り切った。
11月に受診したときは自覚症状はなかったのに、12月の検査入院の頃には歩くと息切れし、歩くスピードも高齢者のように落ちていた。階段も登れなくなっていた。
検査入院する頃は歩くのも苦しくなっていた(櫛井優介さん提供)
入院し、さまざまな検査を受けると、肺活量の検査をするだけで苦しくてたまらない。血液内の酸素量を測る「酸素飽和度」も、正常値は96%以上なのに、90%前後に落ちていた。
肺に入れた生理食塩水を取り出して病理検査した結果、診断が出た。
「膠原病を起因とした皮膚筋炎と器質化肺炎」
膠原病とは本来、自分の体を守るはずの免疫システムに異常が起こり、自分の体を攻撃してしまう「自己免疫疾患」だ。全身の筋肉、皮膚、血管などに炎症を起こす。
国指定の難病だが、主治医にその病名を告げられてもあまりピンとこない。ただ、説明を聞くと、完治はしないけれど、すぐ死ぬわけでもないし、仕事も続けられる、家族ともこれからもずっと過ごしていけるとわかり、少しホッとした。
医師や看護師とのやりとりがITで医療を便利にできないか、考えるきっかけに
診断がつくまでは薬での治療ができず、酸素吸入をしていた(櫛井優介さん提供)
診断が付いてからは、大量のステロイドを点滴で入れる治療が始まった。
主治医からは「年末年始は帰してあげたいので、クリスマスは病院で我慢してくださいね」と言われ、検査入院から続く入院生活は2週間となった。
パソコンを持ち込んで暇つぶしにネットドラマを見たり、YouTubeを見たりしているだけで、医師や看護師から「IT系の仕事をなさってましたよね。さすがですね」と褒められる。
「私としてはただ遊んでいるだけなのに、普段接しているIT関連の人と、それ以外の人とのギャップに気づきました。医療界でもITを使って利便性を増したり、待ち時間を減らしたりできるのではないか、私もそれに貢献できるのではないかと考えるきっかけになりました」
イベント企画魂が炸裂 クリスマスにドーナツをプレゼント
コロナ禍で面会も禁じられており、看護師さんと話すのが唯一、人と話せる癒しの時間だった。だが看護師は忙しい。コロナ対応ものすごく大変そうだったから、クリスマスに何か感謝の気持ちを示せないかと考えた。
順天堂大学の中にはスターバックスがある。ここでいつものイベント企画魂が蘇ってきた。
大学病院内のスターバックスで大量にドーナツを買ってプレゼントした(櫛井優介さん提供)
「ドーナツを予約して、50個ぐらい買いました。普段イベントをやっているので、手配は慣れています。人の少ない時間に依頼に行き、事前に要望を的確に伝え、準備に必要な時間を取り、決済は先にしておいて当日は受け取るだけにしておく。段取りはよくわかっていますので、店に依頼したら『いいですよ』と言ってもらいました」
ドーナツは個包装になっていて、中にどの種類が入っているかわからない。店に要望して、何が入っているかわかるように包装紙に書いてもらった。
いよいよクリスマス当日、ドーナツには感謝のメッセージと共に、ドーナツの写真を入れたお品書きも用意した。パソコンを持ち込んでいたから、スマホで撮った画像をパソコンに取り込み、そんな「資料」を作るのはお手のものだ。
医療者に向けたクリスマスプレゼントのドーナツに添えた感謝のメッセージとお品書き(櫛井優介さん提供)
医師も看護師もものすごく喜んでくれた。それから数日間、勤務が入れ替わるたびに「ドーナツいただきました」とかわるがわるお礼を伝えにきてくれた。最後は師長さんまでお礼に来てくれた。
「入院してもそんなイベントを企画できて、楽しかった。やっぱり入院って暇でつまらない。でもこんな形で人にも喜んでもらえることができたと思って、自分が一番嬉しかったですね」
疲れやすくなった自分を気遣ってくれる家族
年末に退院。難病申請をして、年明けには認定された。量は減ったが、それからずっとステロイドを飲み続けている。自身を攻撃する免疫を抑える薬だから、病原体に感染しやすくなる。人混みは避け、なまものはなるべく食べない。副作用で太りやすくなった。
「良かったのは花粉症がなくなったことです。めっちゃ快適です。ラッキーなこともある。私はあまり後悔しないし、クヨクヨしない。仕事のストレスで十二指腸潰瘍になった頃はなんでも『自分の責任だ』と思い詰めていたのですが、ストレスとの付き合い方を変えたおかげで明るくなったんです」
病気の影響で疲れやすくなり、妻も幼い子供たちも自分を疲れ過ぎさせないように気遣ってくれる。「一緒に走ったり、重い荷物を持ったりはしばらくできないからね」と伝えたら、父親と遊びたい盛りの幼い子供たちも理解してくれた。抱っこもせがまなくなった。
子供たちも自分の体調を気遣ってくれる(櫛井優介さん提供)
「すごく嬉しかったのは、退院した日に焼肉を食べに行った時のことです。お会計の時に年長さんだった息子が『今日は僕が出す』と言って、数百円入った小さい財布を出してきたんです。その気持ちが嬉しくて、泣いちゃいました」
医療系のベンチャー企業に転職
退院してしばらくは毎月病院に通っていたが、今は2ヶ月に1回に減った。
体調は以前の通りとはいかないし、検査数値もなかなか下がらない。小康状態だ。
病気になる前から転職を考えていたが、病気になって医療が身近になり、入院中に思いついた「ITで医療を便利に」に、自分が貢献できないか真剣に考えるようになった。
所属していたLINEヤフーでは3000人規模のイベントを企画することもあり、一つのイベントに億単位の予算を使うほどの立場だった。
でも同じ場所で、同じことを繰り返したくない。面白いこと、変なこと、自分にしかできないことをやりたい。そんな気持ちは病気を経て、さらに強くなった。
エージェントを通じて転職活動をしていたが転職先が決まらないまま2024年2月、LINEヤフーに退職を告げた。複数の会社から最終オファーをもらい、医療系のベンチャー企業に入ることを決めた。
6月から医薬の世界をITでさらに便利にし、無駄を省くシステムを作るべく、そこで働く。
「医療の世界にインパクトを出せる仕事だと思います。社会課題を解決する仕事、できれば医療系に行きたいと思っていたので、楽しみです。自分の子供たちが大人になる頃には、もっと医療の世界が便利になるといいなと思います」
「明るい病人がいてもいいじゃないか」
病気は完治するわけではないから、これからも付き合い続けなければいけない。身体を酷使することはできない。
「もう元の体には戻れないことは諦めています。その中で最大限自分の力を発揮するために、時間の使い方をすごく意識するようになりました。すぐに死ぬことはないけれど、病気になって人生の残り時間を考えるようになったんです」
「私にしかできないことはあるはずだから、それを追求したい。誰もが参加できるイベントをやってきて、これまで色々な会社の人と繋がりがある。他の会社のCTO(最高技術責任者)ともさまざまな技術コミュニティの代表者とも話せます。そのつながりをもっと活用したいです」
今回取材を受けようと思ったのは、「明るい病人がいてもいいじゃないか」と伝えたいからだ。
「私は入院中、看護師さんにもよく『櫛井さんって明るいですよね』と言われました。治らない病気になると基本暗くなるし、死の匂いも漂ってくる。また病気は悪くなる可能性もあるけれど、あまりそれを気にしても仕方ない。クヨクヨしても仕方ないんです」
「人ってやはり世の中の役に立ちたい気持ちがある。自分の仕事で誰かが幸せになるようなことを仕掛けていきたい。病気になってそんな思いがますます強くなっています」
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