がん患者の健康格差 高額療養費制度の見直しでさらに悪化することを懸念

患者団体から反対の声が上がる高額療養費制度の見直し。がんの健康格差を研究する大阪医科薬科大学医学研究支援センター医療統計室准教授の伊藤ゆりさんは、「既にあるがんの健康格差がさらに悪化しかねない」と懸念を示します。
岩永直子 2025.02.09
誰でも

高額な医療費を使う患者の自己負担を抑える「高額療養費制度」の見直しで、「治療を継続できなくなる」と様々な患者団体から強い反対の声が上がっている。

がんの健康格差(※)を研究する、大阪医科薬科大学医学研究支援センター医療統計室准教授の伊藤ゆりさんも、「自己負担が増えることで、健康格差が悪化する」と懸念する。

経済的に余裕があるかどうかによって、健康や命が左右されていいのか。

伊藤さんに取材した。

※収入や学歴などの社会的、経済的な要因によって、寿命や健康状態に生じてしまう不平等。収入や学歴で不利な立場に置かれるほど、健康状態は悪化し、寿命も短くなる傾向がある。

伊藤ゆりさん(撮影・岩永直子)

伊藤ゆりさん(撮影・岩永直子)

※インタビューは2月8日に行い、その時点の情報に基づいている。

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がんの健康格差が拡大することを懸念

——がんの健康格差を研究してきたお立場からすると、今回の高額療養費制度の自己負担上限引き上げで、格差はどうなるのでしょうか?

拡大することを一番懸念しています。今回の見直しが、どういう層に影響が出るのかを心配しています。

伊藤ゆりさん提供

伊藤ゆりさん提供

——まず健康格差について説明していただいてもよろしいですか?

個人の年齢や生活様式などと健康状態は関連すると言われてきました。だから「たばこをやめましょう」「運動をしましょう」など、個人の生活を改善することで健康状態も改善させようとするアプローチが取られてきたのです。

でも実際には、その人たちが属している環境や状況によってその生活様式が左右され、健康に影響を与えていることがわかってきました。一番大きな単位なら国だと思いますが、その人の住んでいる地域で受けられる医療サービス、労働環境、属している会社、医療保険などに健康状態は影響を受けます。

つまり、その人を取り巻く背景が健康に影響を与えるという考え方です。自己責任論では解決できない問題が非常に多いと言われています。社会環境へアプローチすることで国民全体の健康状態を良くしたり、その人の属性や住んでいる場所や経済状況による格差が生じないようにする政策を打ち出したりしなければなりません。

「健康影響予測評価」がないままの医療制度変更

——今回の高額療養費制度の見直しは、この図で言えば「保健医療サービス」の部分をいじるということですね。

そうですね。今回のように医療制度を変える時は、事前に「健康影響予測評価(HIA:Health Impact Assessment:)」をやることが求められています。その制度変更によって、どういった人たちに健康影響が出てくるかを本来、考えなければいけない。

収入やどういう会社に勤めているか、自営業であるか、どのような医療保険に加入しているかなど毎に、高額療養費制度の自己負担上限を上げることでどんな影響が生じ得るかを検討する。例えば、自己負担増によって治療を続けられなくなって、診断後短い期間でがんにより死亡してしまう属性の人もいるかもしれません。

「健康影響予測評価」は、そういうことを事前に検討し、意思決定に役立てるツールです。今回の見直しは、そういう事前の評価が欠けているまま進められているように見えます。

伊藤ゆりさん提供

伊藤ゆりさん提供

経済状況で、生存率に差も 見直しで拡大しないか?

国の健康計画「健康日本21」では、健康寿命の格差の解消と、健康寿命の延伸を目標にしています。片岡葵さん(神戸大学)と私たちの研究によれば、地域の社会経済的な状況の違いによって、平均寿命や健康寿命に差があることがわかっています。男性では最も困窮している層と最も裕福な層を比べると、健康寿命は2.3歳も差がつきます。

第80回がん対策推進協議会・参考人資料より

第80回がん対策推進協議会・参考人資料より

死因別に地域の困窮度による死亡率の格差を見た場合、がんが一番の全体の死亡率の格差に寄与しています。

第80回がん対策推進協議会・参考人資料より

第80回がん対策推進協議会・参考人資料より

困窮度の高い地域と低い地域では、がんの死亡率にもかなりの差があります。しかもその格差は年々拡大傾向にあります。困窮度の高い地域ではがんを早期に見つけにくく、進行がんが多いです。

さらにこれが一番医療費の問題に絡むのですが、生存率に関しても格差が見られることがわかっています。

個人の収入や社会的地位によって、がん死亡率にも既に格差は生じています。それが今回の見直しで拡大するのではないかというのが、私の問題意識です。

経済的に不安定だと治療中止や辞職につながりやすい

今回の見直しは、がん患者の「経済毒性」も悪化させるおそれがあります。「経済毒性」とは、がん発病により経済的に悪影響が生じる現象のことを指します。

伊藤ゆりさん提供

伊藤ゆりさん提供

がん患者の経済毒性がどうなっているのかを見るために、国立がん研究センターが2018年に全国のがん患者に実施した自記式質問紙調査「第2回患者体験調査」を解析しました。がん診療連携拠点病院で治療している患者が対象の調査です。

経済的な理由によって治療を中止、または変更せざるを得ない人も少なからずいます。若い働く世代(Adolescent and Young Adults: AYA)の女性では、12・1%が中止・変更に追い込まれています。

また、治療中止・変更に加え、食費や医療費を削る、借金をする、家族の進学を変更する、受診を見送るなどの影響を加味すると、約3割の患者が経済毒性を経験し、中でも40歳未満のAYA世代は5割程度が経験していました。正社員であっても、仕事を辞めた方や、男性の個人事業主で、廃業した方では5割以上に上っています。

伊藤ゆりさん提供 :菅香織, 伊藤ゆり 他. 第62日本癌治療学会学術集会 発表スライドより 

伊藤ゆりさん提供 :菅香織, 伊藤ゆり 他. 第62日本癌治療学会学術集会 発表スライドより 

がんによって仕事を続けられなくなった人も、非正規雇用の人が多く、女性の方が多いという特徴があります。

こういう調査の結果や、先に述べた死亡率、生存率などに見られる健康格差の状況も踏まえ、がん対策の基本計画の全体目標の中に「誰一人取り残さないがん対策」という文言が入り、健康格差に取り組んでいくことが示されました。それを元に厚生労働省の研究班が立ち上がって、代表者として各専門分野の先生方とともに研究を行っています。

今回の高額療養費の議論のように、収入や加入保険の種類が、特にがんになった後の健康に影響を与えることがわかっているのです。

医療保険によっては、がんの予防、治療で不利に

——医療保険別に見ると、個人事業主など国民健康保険に加入している人は、がんになっても不利な状況に陥りがちなのですか?

国民健康保険の加入者はがん検診の受診率が低い特徴があります。

大企業で働いて組合健保に入っている人は、定期健康診断に加え、オプションでがん検診が提供されていることが多く、自然とがん検診を受けられるような環境に置かれています。

それに対して、国保の人やがん検診の提供がない保険加入者はもちろん市区町村のがん検診を受けられるのですが、自分で受けられるところを探して予約を取らなくてはならず、それが検診受診率の低さにつながっています。

そもそも予防の時点で、喫煙率の高さや飲酒量や検診受診など、その人たちの置かれている環境による格差が生じています。

さらに病気になった後に、治療費の自己負担が上がってしまうことになると、その後の健康状態や生存率にも非常に影響を受ける集団が増えることが予想されます。

今回の見直しで医療費が「破滅的な支出」に

——治療費の自己負担が上がると、治療だけでなく生活にも影響を与えそうです。

今回の高額療養費の自己負担の上限変更によって、収入に占める医療費の割合が増えることも、皆さんが懸念しているところです。

全国がん患者団体連合会のアンケートでも患者の声が上がっていましたが、「家族のために治療をやめる」とか、経済的な負担の重さを理由に治療を諦める人が増えてしまうのではないでしょうか。低所得だけでなく、中所得ぐらいまでの人にも影響を与えてくるのではないかと思います。

WHO(世界保健機関)は収入のうち、生活費を抜いた分の40%を医療費が超えてくると、「破滅的な支出」になり得るとしています。つまり医療費が家計のそれぐらいを占めてくると、貧困に陥ってしまう。

総務省統計局の家計調査を元にざっと概算してみたのですが、現行でも世帯収入が低い方は40%を超えています。

長期の治療を受け、繰り返し高額療養費制度が適用される多数回該当(※)の上限額で計算すると、40%を超える層は少なくなってきます。

※直近12ヶ月で3回以上高額療養費の対象になった場合、4回目以降はさらに自己負担限度額が引き下げられ、多数該当の限度額が適用される特例制度。

それが今回の見直しが行われると、ほぼどの収入レベルでも「破滅的な支出」になってしまいます。

高収入の人も圧迫されるので、もしかしたら格差は縮小される可能性があるかもしれません。でもそれはいい方向での格差解消ではなくて、良かった人も引き下げてしまう格差の縮小です。それでは意味がない。全体として底上げする方向で格差の縮小は狙わなければいけないので、困った事態だなと思います。

ただし、高額療養費制度に上乗せの「付加給付」のある保険に属している大企業に勤めている人は、破滅的な支出にはなりません。

——私のような中所得でフリーランスの人間が困りそうです。

そうだと思います。フリーランスの人は、特にがんになったら仕事ができなくなる可能性も高まります。がん治療が現在の収入と直結します。でも医療費の負担は前年の収入で決まってしまう。即座に困窮に陥ると思います。

本当にこれがユニバーサル・ヘルス・カバレッジ(すべての人が必要な保健医療サービスを、必要な時に、支払い可能な費用で受けることができる状態。日本だと国民皆保険)の国で起きていることなのかと愕然とします。

費用対効果の薄い医療を保険から外す努力を

がん患者さんは年々増えていますし、トータルの医療費は当然増えています。一方で国の予算がそんなに増えるわけではありません。

ではどうバランスを取ればいいのか。

これはユニバーサル・ヘルス・カバレッジの説明でよく出てくる図です。WHOの機関であるIARC(世界がん研究機関)のがんの社会経済格差に関する研究レポートにも引用されていました。

Reducing Social Inequalities in Cancer: Evidence and Priorities for Research  IARC Scientific Publication No. 168

Reducing Social Inequalities in Cancer: Evidence and Priorities for Research  IARC Scientific Publication No. 168

3つの軸があって、横軸は「誰がカバーされるか」で、日本の場合は国民皆保険ですから、横軸はすべて伸ばせます。縦軸は「どれぐらいまで公的に費用がカバーされるか」、奥行きは「どんなサービスまでカバーされるか」です。

全員、すべての費用を公的に負担して、すべてのサービスをカバーすると、水色の容積は満タン状態になります。

日本では今回、どのぐらい公的にカバーされるかの部分に手をつけようとしているわけですが、公衆衛生を研究する立場からすると、「どんなサービスまでカバーされるか」の方に手をつけるべきではないかと思います。なんでもかんでも医療保険でカバーされるべきなのか、見直しが必要です。

その治療によってどれぐらいの生存年数が得られるか、生活の質が良くなるかを考慮し、費用対効果が高いとされているものだけに限れば、もう少し縦軸を増やすことができるかもしれません。

——先生は、風邪に抗菌薬を使うなど、医学的に意味のない処方を保険から外すことなどを一例に挙げていましたね。他にはどんな医療が保険対象から外せそうですか?

それは丁寧に検討しなければいけませんが、「お金がかかっているけど、社会的にインパクトの少ないないもの」は無理に保険でカバーする必要はないと思います。

平均寿命よりも若い人が早逝してしまわない方面にコストを多く配分するのは、自然なことだと思います。

——医療の費用対効果に対する研究はあまり、日本の医療政策にあまり活かされていないのでしょうか?

優秀な研究者はいらっしゃるのですが、海外に比べると人数はあまり多くないと思います。そのため、毎回政策と結びついた研究が出されるわけではなく、十分ではないです。今回の変更の際に、どういう健康の影響が起き得るか、専門家の意見がどれほど聞かれたのかは疑問です。

そもそも、医療政策を変える時は、HIA(健康影響予測評価)をやりましょうということはWHOはじめ国際的にも提唱されており、2011年には日本公衆衛生学会でもガイダンスを出しているのです。しかも学会のガイダンスでは、HIAをやる時は、当事者も含むさまざまな関係者と議論をしなければいけないと書いています。

今回はそのような議論なしに決められているのではないかと思い、研究者として懸念しているところです。患者団体の皆さんの素早いアクションに学術団体や研究者としてもきちんと議論する材料を準備していきたいと思っています。

私たち日本国民は日本国憲法第二十五条の生存権により、「すべての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 」ことが保障されています。

そして、「国は、すべての生活部面について社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。 」ということに今一度立ち返って、誰一人取り残されることのない健康施策を行う必要があります。研究者としてこの使命感を持って取り組んでいきたいです。

【伊藤ゆり(いとう・ゆり)】大阪医科薬科大学総合医学研究センター医療統計室准教授 疫学・保健医療統計研究者

2007年、大阪大学医学系研究科保健学専攻にて博士(保健学)を取得。その後、大阪国際がんセンターがん対策センターにて研究員、主任研究員を経て、2018年より大阪医科薬科大学研究支援センター医療統計室長・准教授として、学内外の研究の統計的支援を行う。公的統計を用いた記述疫学的手法により、がん対策や健康格差に関する研究に従事。

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