「私ががん患者になったことは追い風になる」 高額療養費制度の見直しに反対してきた患者団体代表が当事者になって思うこと
高額療養費制度の患者自己負担引き上げを食い止めるために奔走してきたら、今度は自身がステージ4の胆嚢がんになった。そして、まさに高額な免疫チェックポイント阻害薬で命をつなぎ、高額療養費を利用する立場になっている——。
そんな予想もしなかった展開を今、経験している、一般社団法人igannet代表(元スキルス胃がんの患者・家族の会「希望の会」代表)で、全国がん患者団体連合会事務局長の轟浩美さん(63)。
国会・参考人質疑での渾身の訴えもあり、見直しはいったん凍結になったものの、再び審議は大詰めを迎えている。
どんな思いでがんの診断を受け、治療をしているのか。そして自身も当事者になった高額療養費制度の議論で何を訴えていくのか?
治療しながら、国会議員へのロビー活動も続ける轟さんにお話を伺った。
免疫チェックポイント阻害薬「キイトルーダ」を含む抗がん剤治療が奏功し、体調がいいという轟浩美さん
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一時凍結後、体調が悪化してがん発覚
——轟さんががんの診断を受けたこと、非常に驚きました。しかもこのタイミングでとは。
自分でも驚きました。年明けからずっと高額療養費制度のことで動き、過去10年間の患者会活動の中でも桁違いの要望活動を経験しました。参議院予算委員会の参考人になったり、石破茂元首相とお会いすることになったり、もう何が起きているのかと思うような日々を過ごしてきたじゃないですか。
——そりゃそうですよね。
それでいったん立ち止まってくださることになり、方針を決めると言われていた秋に自分がまさか当事者になって、高額薬剤を使って高額療養費制度の現実を当事者として知ることになるなんて。シナリオ以上だと思います。
でもやはり患者となって気がついたことはいっぱいあります。
——SNSでもリアルタイムで病状や治療を発信されていますが、まず、病気に気づいたのはどんな経緯だったか改めて教えていただけますか?
石破首相とお会いして、いったん立ち止まることが決まった後、ガタガタっと体調を崩したんです。
——具体的にはどんな症状があったんですか?
人と会いたくないし、何を食べても美味しくない。メンタルが落ちていたことも当然あったと思います。だけどあまりにも変なので、かかりつけ医を受診したら、血液検査でまず「膠原病じゃないか?」と言われたんです。
その三ヶ月後の検査でも、まだすぐに治療すべき程度ではないけれど、数値が上がってきているから様子を見ましょうと言われました。
そして三ヶ月に一回の経過観察の検査を2回目に受けた半年後、炎症反応を示すCRPという数値が通常は0.3〜0.5程度なのが、私はもう5になっていたんです。その場でこれはとんでもないことだから検査を受けなくちゃダメだと言われ、でももしかしたら細菌感染かもしれないから抗生物質を飲みながら検査を受けることになりました。
1週間抗生物質を飲みながら検査をしたのですが、どんどん上がっていくんです。それで慶應大学病院の総合診療科を紹介されて受診したら、10を超えており、入院レベルに上がっていました。その時の造影剤を使ったCT検査で胆嚢にがんがあることがわかったのです。
多発性のリンパ節転移も見られると言われました。私も患者会を長くやっているので、これはステージ4で手術不適応だということはわかりました。治験を受ける可能性も考えたら、がん専門病院で治療を受けるべきだろうとも思いました。
学会で知り合った先生が病院長だったり、いろいろ知り合いの先生がいらっしゃるのでお願いしたら「それはすぐ来なければいけない」と言われ、がん研有明病院に行くことになりました。
9月の半ばに行ったのですが、そのあたりから腫瘍熱が出てきてしまって、1週間で7キロも痩せました。9月の終わりには「一刻も争う状況だ」 と言われました。私は死ぬのだなと思いました。
「これで患者体験がないくせにとは言われなくなる」
——体調はどんな感じだったのですか?
毎日毎日39度近い熱がずっと出て、ほとんど何も食べられなくなりました。一生懸命食べてもどんどん体重も落ちてくる。夫(スキルス胃がんで2016年に亡くなった哲也さん)の経験があるので、私はもう亡くなる前の数週間のところに入ったのだなと思ったんです。
——診断を受けた時に、SNSでつぶやかれた「(これで、患者体験がないくせにとは言われなくなる)と真っ先に思った」という言葉に胸を衝かれました。それまで家族の立場で希望の会を率いてきたのがどれほど大変だったのかが、あの一言でわかりました。どういう気持ちだったんですか?
すごく不思議なんですけど、私ね、ホッとしたんです。
10年の間に、一般の人から言われたことは1回もないんですが、患者会の人たちは「目立ち過ぎる」と言う。ロビイングに対しても言われました。自分は目立ちたくてやってるわけじゃないし、もちろんそういうことは聞き流そうとは思ってたけれど、心の中ではずっと苦しかったんですよね。
1番ひどかったのは、「家族の死を売り物にしている」と言われたことです。それはもうずっと心に残っていました。
だから、自分が患者になった時に、「もうこれであれこれ言われないで済む」と思うと同時に、私が本当に患者の体験をしたらやっぱりきっとわかることがあるんだろうと思いました。なにか解き放たれた気がしたんです。やっと。
——そんな言葉を陰口ではなくて、直接言ってきていたんですか?
「体育館裏に呼び出された」と表現していますが、患者会の集まりで隅っこに呼ばれて、「発言が多過ぎる」とか「東京に住んでいるからっていい気になっているんじゃないわよ」と直接言われていました。
——じゃああなたがやれよと思いますよね。
言い返す力もなかったです。遺族として夫から患者会を引き継いだ頃によく言われていました。「遺族なのにそんなに明るい服着ていていいの?」など、結構言われていましたね。
——余計なお世話ですね。
遺族というのは悲しくしているべきなんだ、大人しくしているべきなんだと言われ続けていました。だからこの10年間、とにかく学べるところには絶対に行かなければと思って、がんという言葉にまみれて毎日過ごしていましたね。
最初は治療を拒否しようと思っていた
——診断を受けて、治療方針を決定したのはいつ頃だったんですか?
がん研有明でがんと告げられて、それまでの検査データからのっぴきならない状態だということもわかっていました。「あとはPETを撮って、10月2日に最終の確定診断をする、その日の午後にもう化学療法を受けてもらう」と言われました。
——すごいスピード感ですね。
何の薬を使うという説明もなく、「もう席を確保しているから、とにかく治療を始めましょう」という感じでした。
でも、正直なところ、私は治療を拒否しようと思っていたんです。
——え?それはなぜですか?
もう60歳を過ぎているし、例えちょっとだけ命が延びたとしても、副作用に苦しむ日々に耐えたくない。そのために苦しみたくないと思ったんです。
これまでの10年間、歯を食いしばっていましたが、やり切ったと思いました。だからもう人生を終えてもいいでしょうと思ったのです。
それでも結局なぜ治療を受けたかというと、夫の母が生きていたからです。先立つ不幸をこれ以上この人に経験させたくない。治療をしても結局は経験させるかもしれないけど、私が治療をしないで、先に死んだら彼女はもっと苦しむだろうと思いました。だから、1回だけでも治療を受けようと思ったのです。同居している義母がいなかったら、私はたぶん治療を拒否していたと思います。
キイトルーダが体に入るのを見ながら、国会質疑を思い出す
——高額療養費制度の議論でも話題に上がった免疫チェックポイント阻害薬を使うことはどのタイミングで知ったのですか?
化学療法は全て外来で受けたのですが、最初に受ける時に初めてキイトルーダ(ペムプロリズマブ)を入れると聞いてびっくりしました。まさに私がずっと話してきた高額薬剤じゃんと思って。それに加え、ゲムシタビンとシスプラチンの3剤を入れる治療で、5時間かけて投与します。
——薬が自分の体の中に入っていく時、何を感じましたか?
まず最初に自分の体に入ったのがキイトルーダだったんです。点滴に書かれた薬剤の名前を見ながら、国会の参考人質疑の時のことを思い出してなんとも言えない気持ちになりました。
——効果は感じたのですか?
終了後、家に帰って、翌朝起きたらストーンと熱が下がっていました。爽快な寝覚めだったんです。半年ぐらいぶりに私が戻ってきた!という感じでした。
——副作用はどうでした?
他の2剤がゲムシタビンとシスプラチンだったので、気持ち悪くなることは覚悟していました。きっとトイレに通うことになるだろうと思って、「絶対来る、絶対来る」と待っていた。でもそれが一切無かったんです。点滴に吐き気止めが入っていたようです。
念の為に吐き気止めの頓服薬ももらっているのですが、1回も使っていません
——そこから一ヶ月ぐらい経ったのですよね?調子はどうですか?
一ヶ月少しずつ体調が上向きになっていって、腫瘍マーカーもバーンと下がりました。そして先日は、腫瘍マーカーは正常値になったんです。
——良かったですね!今後はしばらくこの化学療法を続けるわけですね。
2投1休と言って、毎週2回投与したら、1週休みというスケジュールです。感染症が心配だから、この休みの期間中に新型コロナウイルスとインフルエンザのワクチンを接種した方がいいよと言われてうちました。
うちは義母が高齢で重症化リスクが高いので、新型コロナのワクチンは毎年うっているんです。でもその度に発熱していたのに、今回はその副反応の熱もありませんでした。
体調が良くなる一方で、「いったい何が起きているんだ」という感じです。あの時、治療を拒否していたら今はなかったと思っています。
——顔色もすごくいいですしね。
皆さんに言われます。「前は顔が土気色だったよ」と言われるんです。
うまくいった主治医選びと、感じた「格差」
——治療しながらロビー活動も続けていらっしゃるんですね。
参院選で高額療養費制度と社会保障を考える議員連盟の会長が落選されたので、次の会長を誰にするのかを事務局長と水面下で話していました。ただ、内閣が決まらないとその方が閣僚になる可能性もあるので、ある程度の候補を絞っておく話し合いはしていました。
高市早苗首相は総裁選の時は、高額療養費は上げないと明言していましたし、与党に日本維新の会が入って、維新の方々も超党派議連の中でかなり積極的にOTC類似薬のことや外来特例の話をされていたので、維新の方に会いにいくのが必要だなと思ってロビー活動も始めました。
——主治医とは、治療と活動の両立についてはどう話し合っていたのですか?
はっきり言われたのは、「胆嚢がんのステージ4と言ったら、普通は来年生きているかどうかわからない状況です。でも、来年生きてるかどうかを考えるよりは、あなたが今日体調がいいかどうかで、今日どうするかを決めればいい。今日体調がいいならば、何もあなたががん患者だからといって控える必要はなはい。ご自分の今までの活動をやればいいし、体調が良ければ今まで通りお酒も飲んでいいし、活動もしていい」ということです。
——すごくいい先生ですね。前から知っている医師だったのですか?
いえ、がん研有明の院長が日本胃癌学会の先生なので、肝胆膵といえば、外科ならこの人、内科ならこの人と紹介されました。他の腫瘍内科の先生に聞いても、「あの先生だったら大丈夫」という評判の先生なんです。
——治療の腕もいいし、生活を尊重してくれる意識も持っていらっしゃる。病院選びやお医者さん選びが、最初に患者がつまずきがちなところですが、うまく行ったんですね。
私はうまく行ったんです。でもまず最初に思ったのは、「ここにも格差がある」ということでした。
夫は逆に言えば繋がれなかったから、悔しい思いをずっとしてきました。今の国のがん対策のスローガン「誰一人取り残さない」という言葉はすごく大き過ぎる。私は知識があって知り合いがいたからこういう経緯を辿れたけれど、そうじゃない人がいる。
その時によく言われる「賢い患者になりなさい」という言葉は、私はキツすぎると思うんですよ。
——確かにそうですよね。
患者は自分で情報なんて探せないし、私はいい結果を得たからこそ、ここに格差があるということを痛感しました。
——当事者になっても自分のことだけを考えないんですね。全体のことも考える。
やはり患者団体の代表なのでね。
がんになったのは私のさだめ
——がん治療、とても効果があって副作用もなく、率直に嬉しいと感じてらっしゃるのでしょうか?
もちろん嬉しいです。だけど今も思っているのは、これは私のさだめなんだなということです。
高額療養費制度の見直しの時に、国会に参考人として呼ばれ、秋に患者となり、実際に高額療養費制度を使っている。
がんになって何よりも大変なのは、社会的痛みです。経済的痛みに覆い尽くされてしまう。毎回請求書を見ては倒れそうになります。9万円前後が1回に請求されるんです。
寄せられた患者アンケートの中にも、カードのリボ払いを使っているという声がありましたが、がん患者は「この治療費をどうやって払うんだ」という不安がまず出てきます。あとは家族をどうする、仕事はどうするという問題も出てくる。
私の場合は患者会活動ですが、そんな不安が一気に押し寄せました。私の活動は固定給もないし、収入につながる活動ではありません。基本、ボランティアです。
でも以前のように先生だったら、やはり休むとは言えなかっただろうなと思いました。
がんと就労の問題は「がんになっても働けますよ」ということにフォーカスが当たっています。でも、逆にすごく体がキツくても治療費を払うためには働かざるを得ない状況になって、無理をしただろうなと感じました。
——SNSを見ると、年金を早めに受け取れないか役所と交渉したり、いろいろやってらっしゃいましたね。
私は幼稚園を辞めて、私学共済からすぐに国民年金になってしまったんです。そうじゃない人は63歳から特別給付があるのに、私はその対象になっていない。年金事務所にかけあっても、「あなたは65歳になるまでもらえない」としか言われません。
だから「私は死ぬんです。65歳になる頃にはこの世にいない」と言ったんですが、たらい回しにされました。最後は私学共済まで回されたのですが「、これだけ払い続けてきたのに、何ももらえないのはおかしいじゃないか」と訴えたら、やっと「書類を送ります」と言われました。
私は折れないで「私は死ぬんだ」と言い続けたから書類を出してきたけれど、こうやって払わないように門前払いをするのが基本なんだなということは感じましたね。
「私ががん患者になったことは追い風になる」
——他に社会的痛みは何を感じましたか?リアルタイムでがんの状況を発信なさっていますけれど。
私がなぜがんを公表したかというと、やはり痩せたり、髪の毛が薄くなったりすることで、憶測で物を言われるだろうと思ったんです。夫の時もそれで苦しみました。
本当はがんだと、誰にも彼にも言いたいわけではない。でも少しでも痩せたり髪が薄くなったりすれば、「あの人きっとがんよ」という噂にまみれてしまうと思いました。夫の時にそれで苦しんだからこそ、私は自分からドンと公表して、私を守りたかったんです。
——検査の段階からリアルタイムで発信されていましたよね。がんだと公表したのはどのタイミングでした?
リンパ節転移も認められる状況です。
年に3回受けていたかかりつけ医の血液検査で炎症反応等が判明したのが3週間前。
9月の段階で公表しましたし、10月2日に初めて抗がん剤を投与した時からはかなり詳細に書いています。
それは自分を守るためでしたし、やはりもう一つ、高額療養費制度のことがずっと頭にありました。こういう言い方が適切かどうかわかりませんが、すごく率直に言うと、私ががん患者になったことは絶対に患者に追い風になると思ったんです。
——すごい言葉ですね。そこまで背負わなくていいと思うのですけれども。
でもね、もう捨て身だから。もう死ぬと思ったから。だからどうせ死ぬんだったら、私が最後に感じたことを伝えたいと思いました。これって誰もががんになる、誰もが当事者になることを示していることじゃないですか。
「あなた、他人事じゃないのよ。保険料の話ばかりしているけれど、あなたが高額ながん治療を受けなければいけない立場になるかもしれないんですよ」ということを私が見せられます。ステージ4ですしね。
事前に片木美穂さん(卵巣がん体験者の会「スマイリー」代表)と天野慎介さん(全国がん患者団体連合会理事長)だけに相談しました。「私はがんになってそのことを公表していく。憶測も嫌だし、私のさだめだと思って、高額療養費制度の議論の追い風にしたい」と話したんです。片木さんは泣いていたし、天野さんは「ちょっと待ってください。めまいがします」と言っていました。
でも二人とも、「自分たちには止める権利はない。轟さんが思った通りにしてください」と言ってくれたのです。それを聞いてすぐに発信を始めました。
——猪突猛進というか、すごいですよね。
元々そういう性格なんですが、ロビー活動の時もそうで、「その一瞬を逃しちゃダメだ」といつも思っています。今はいったん収まっていますが、自分の中では高額療養費の見直しの問題はまだ終わっていないぞ、ハーフタイムに入っただけだと思って、ずっと準備はしていました。最後にどんでん返しでやられるんじゃないかと警戒して。
そこに思いがけず自分のがんがやって来たから、これは力として、追い風として使うしかない。そう自分で決断したんです。
(続く)
【轟浩美(とどろき・ひろみ)】一般社団法人igannet代表理事、全国がん患者団体連合会事務局長
東京都出身。1986 年、お茶の水女子大学家政学部児童学科卒。同年から2014年まで学習院幼稚園教諭。15年、スキルス胃がん患者会として「希望の会」発足。16年、夫の逝去に伴い、NPO 法人希望の会理事長就任。17年、 希望の会が認定NPO法人として承認。17年から19 年まで厚生労働省がん対策推進協議会構成員。21年より、全国がん患者団体連合会理事となり、25年には事務局長に就任。25年11月、一般社団法人 igannet 設立(希望の会は解散手続き中)。患者向け胃癌治療ガイドライン作成委員。東京都がん対策推進協議会委員。医療の質・安全学会理事。在宅療養財団理事。
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