今こそ明かす、ピルが日本でなかなか解禁されなかった本当の理由 承認に向けて活動してきた産婦人科医が出版
女性が自身で意図しない妊娠を防げるよう、世界中で使われている低用量経口避妊薬、ピル。日本でだけ、大幅に承認が遅れたのは、誰のどんな思惑が働いたのでしょうか?
承認に向けて1990年初めから活動を続けてきた産婦人科医、北村邦夫さん(74)がピルの歴史を紐解き、解禁に至るまで何があったのかを綴った著書『ピル承認秘話 わが国のピル承認がこれほど遅れた本当の理由(わけ)』(薬事日報社)を出版しました。
北村さんにインタビューしました。前編です。
北村邦夫さん(撮影・岩永直子)
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先人たちの苦労があって恩恵を受けられるピル
——この本を読んで、ピル解禁に反対する理由として、副作用への不安だけでなく、性の乱れを助長するとか、エイズが蔓延するとか、色々なことが言われていたんだなと改めて知りました。
何度も承認が先送りされたので、製薬企業が何度もピルを太平洋に捨てたという噂まで出回りました。「承認間近か?」となると製薬会社も準備せざるを得ません。パッケージに詰めて、その日を待とうとしても見送られたら、売れないわけですからね。
突然、「環境ホルモンになりかねない」という話まで出てきましたからね。
——何度も横槍が入って承認が引き延ばされ、やっと1999年に承認されたわけですが、そこから26年経った今、なぜ本にまとめようと思ったんですか?
ピル承認までの道のりについては、日本家族計画協会のサイトで7年ぐらい連載を書いていたんです。100話近くになっていました。
——過去の資料まで読み込んで、ピルを開発した人から、承認のために奔走した人まで調べて書いています。なぜこれを残そうと思ったのですか?
日本では、OC(Oral Contraceptives、経口避妊薬)、LEP(Low-dose Estrogen Progestin、低用量エストロゲン・プロゲスチン配合薬)という分類をしています。
日本家族計画協会(JFPA)は2002年から「男女の生活と意識に関する調査」というアンケートをずっと続けていますが、2023年の最新調査では、その一つ前の2016年の調査よりOC、LEPの服用者が4倍に増えたんです。これはすごいことだなと思ったんですね。
避妊や月経異常の薬として使っている人はもちろん、OC、LEPの処方を売りにしている産婦人科医や製薬会社など、恩恵を受けている人がたくさんいる。でも、そのピルが承認に至るまで大変な道のりをたどってきたことを知らない人たちばかりです。
だから、ピルにはそういう歴史があることを共有することが大事なんじゃないかと思って書いてきました。「僕が苦労した」と言いたいわけじゃなくて、先人たちの苦労があったことを現在の人たちは知っておいた方がいいと思ったんです。
北村さんがピル解禁の議論に巻き込まれたきっかけ
——すごく分厚いファイルですね。
ピル承認に関する資料をスクラップしたファイルです。これはごく一部で、これと同じようなファイルが10冊近くあるんです。
この記事は1992年3月に、エイズが蔓延するという理由で、ピル解禁が凍結されたことを読売新聞が報じた記事です。僕自身はこの時、読売の記者から「ピル承認の審議がエイズが蔓延するのを懸念して凍結される」と取材の電話がかかってきて、コメントしました。
ピル解禁が凍結されたことを報じるスクープ記事を見せる北村さん(撮影・岩永直子)
「それはおかしいんじゃないか、ピルはあくまでも避妊薬であって、エイズ予防薬ではないのだから、一緒にするのはおかしい。エイズの予防は性教育やコンドーム利用を促す教育が大事なのであって、承認目前になっているこの期に及んでそんな懸念を持ち出すのはおかしい」と話しました。
しかも、本来、新薬は薬の安全性と有効性を科学的に検討する薬事審議会で議論されるのに、凍結を決めることになったきっかけは、公衆衛生審議会だったんです。薬と直接関係ないエイズが蔓延する懸念があるからといって、証拠もないのに審議が先送りされるなんて違うんじゃないかと発言しました。これをきっかけに僕はこのピルの問題に巻き込まれることになっていきます。
——本には1990年、外国の女性記者とのやりとりが、ピルへのこだわりに影響を与えたと書かれていますね。「女性が自立するには生殖のコントロールが不可欠なのに、日本の女性は男の医者や役人まかせで、政府にピル認可の陳情をしたり、圧力をかけたりしたという話は聞きませんね」 と言われてハッとしたと。
ワシントンポストの取材を受けた時にそう言われて、大事なことだよなと思ったんです。その前から、日本の女性たちは、避妊法というと、コンドームと腟外射精(※避妊の効果は薄いとされている)ばかりで、男性に避妊の主導権を握られていていいのだろうかという疑問は持っていました。
——でも先生も産婦人科医といえども男性ですね。なぜそういう風に思えたのでしょう?
僕は診療を通して、中絶を余儀なくされるような女性たちと接触しているわけです。僕は自治医科大学出身なので、学費が免除される代わりに、卒業後9年間、地元の知事の指定するところで働くことになっていたため、県庁や保健所で長く働きました。そこでいわゆる中絶のデータを見ていたのですが、若年者の中絶が急増している時期と重なっていたんです。
でも地方公務員であった時はデータはあるけれど、このデータの背景にいったい何があるかは意外とわからない。そんなこともあって、義務年限が終了した後、1988年に日本家族計画協会のクリニックに入りました。そこでの診療経験から、妊娠は確かに女性の問題ではあるのですが、中絶を減らすには男性の避妊に対する協力がどうしても必要なんだなということを感じてきたんですね。
——避妊に協力的でない男性が多かったのですね。
「生でさせろ」と言うとかね。結果として女性は妊娠を余儀なくされて中絶をせざるを得ない。何が原因なのか突き詰めていくと、妊娠は女性の体にしか起こらないのに、避妊は男性に委ねてしまっているというところに間違いなく原因があるのだろうと行き着くわけです。そこで女性が自分でコントロールできる経口避妊薬、ピルが浮かび上がってきたわけです。
日本家族計画協会も当初はピルに反対 小泉純一郎氏も同じ主張を
——本を読んでびっくりしたのですが、日本家族計画協会も当初はピル解禁に反対していたのですね。
日本家族計画協会創設者の國井長次郎は、当時、薬を飲むことの弊害を考えなくちゃいけないと主張して、反対の意思表示をしていたんですね。ピル承認に反対する建議書をわざわざまとめて国に送ったりもしていました。
僕が非常に驚いたのは、國井は、薬は本来病気に対して働きかけるものであって、ピルは健康な女性が服用して、健康な体を乱すものだという発言をして承認を遅らせようとしていたことです。
実はその後、小泉純一郎氏も全く同じ発言をする。ひょっとしたらつながっていた可能性もあるなと思いました。政治家も薬の事情なんてよくわからないでしょうから、有識者がこういうことをかつて言っていたと耳打ちする人がいた可能性があります。
小泉純一郎氏がピルについて語った雑誌を見せる北村さん(撮影・岩永直子)
彼はBARTという雑誌の中で、ピルと卵とサウナの三つに共通しているのは、現代の人たちが非常に安易にものをとらえていることだと言っています。サウナについては、サウナに入って安易に汗をかいて健康を取り戻すなんていうのはおかしい、汗をかきたいなら運動しろと彼は言う。
卵については、僕らは多くは無精卵を食べているけど、野に放たれた有精卵を食べてこそ卵だと彼は言うわけです。
——意味がわからないですね(笑)。
意味がわからない(笑)。そしてピルについても、こんな小さな薬で妊娠をコントロールするなんてあり得ないと言う。でも、この人が厚生大臣だったんですよ。そこで僕は堂本暁子さんに紹介してもらい、小泉さんに会いにいきました。その時、彼は「薬は本来病気を治すためのものであって、健康な人が薬を飲んで体を乱して避妊するのはおかしい」と、日本家族計画協会の國井と同じことを言いました。すごく驚きました。
——そんなことを言ったら、ワクチンだって健康な体にうって、人工的に感染したような状況を作って免疫を作っていますよね。ワクチンだって否定されてしまいます。
そうなんですよ。そんな人が厚生大臣だったわけですからね。
スタートダッシュは良かった日本
——ピルの歴史の話に戻ります。月経異常に対するピルについては、日本は海外に追いついていたのも驚きでした。1955年に国際家族計画会議が東京で開催され、ピルの産みの親と言われるグレゴリー・ピンカス博士がピルの開発について世界で初めて話をして、日本もすぐに動いたわけですね。
そうなんです。追いついていたんです。1957年に避妊薬としては承認を取れなかったので、無月経、月経異常の薬として黄体ホルモン剤の「ノアルテン錠」を発売しました。早かったんです。
55年の国際会議でピンカスがホルモン剤を使った新しい避妊法の話をして、日本の産婦人科医は非常に強い刺激を受けました。世界に先駆けて日本の産婦人科医が女性ホルモン剤を使った避妊薬の話を耳にしたのです。その後ピンカスから資材を送ってもらって、日本でも臨床試験をしたんですね。
——スタートダッシュは良かったのに、その後、どんどん遅れてしまったわけですね。
スタートダッシュが良かったのは、子宮内避妊具も同様です。産婦人科医の太田典礼が開発した「太田リング」は今はもうないのですが、世界に先駆けて子宮内に異物を入れることで避妊を可能にした方法です。これは荷物を運ぶラクダが妊娠したらパワーがなくなるので、ラクダの子宮の中に石を入れて妊娠を防いだことにヒントを得たと言われています。
でもこれも残念なことに、何度も申請をしたのですが、日本では子宮内避妊具についても結局、承認まで40年かかりました。
ピルについても、アメリカが1960年に避妊薬としてのピルを承認したのに続き、「ノアルテン錠」とその後開発された「ソフィアA錠」が相次いで避妊薬としての承認申請を出したのですが、まったく相手にされませんでした。国は厳しい追試を求めて、製薬企業もスピーディーにそれに応えたのに避妊薬として認められない状況が続きました。
結局、避妊薬として、エストロゲン(卵胞ホルモン)とプロゲスチン(黄体ホルモン)の配合剤が承認されたのは、1999年のことです。そして2025年には、ドロスピレノンという黄体ホルモンのみを含む経口避妊薬「スリンダ錠」が承認され、発売されました。この薬の開発には僕は医学専門家として参加しています。
ピル誕生の立役者、マーガレット・サンガーの功績
——ピルが生まれるのに貢献した家族計画の母と呼ばれるマーガレット・サンガーのことにも触れられていますね。カトリック教徒の両親のもとに生まれた彼女が家族計画に携わるようになったのは、18回目の妊娠後、50歳の若さで亡くなった母親への思いがあったという話には衝撃を受けました。避妊をせずに妊娠させ続けた父親に向かって「お父さんがお母さんを殺したのだ」と叫んだという話から、強い思いを持って家族計画に取り組んだことが伝わります。
そうなんです。20世紀の初頭に、サンガーは『The Woman Rebel(女の謀反)』という本を出しました。その本で彼女は、「No Gods,No Masters」と言うんです。「神様なんていないんだ」と。すごいですよね。20世紀初頭と言えば、アメリカの人はキリスト教に影響されている中で、「産めよ、増えよ、地に満ちよ、地を従わせよ」と旧約聖書が言っているわけですから。
キリスト教徒は聖書の教えに従って、次から次へと子供を産んだ。でも育たないので、また子供を産む。女性の心身の健康が損なわれる。そして貧困が彼らを襲う。まさに負の連鎖なんです。それを見かねたマーガレット・サンガーが、なんとかしなきゃいけないと仕掛けたのが、家族計画です。
——命を懸けていますね。
そうです。当時「コムストック法」という中絶や避妊の情報を提供する人は処罰される法律があって、彼女は何度か投獄されたんです。
——そのマーガレット・サンガーが、ピンカスに安全で有効な避妊法を開発してくれと依頼して、ピルができたわけですね。
そうです。ピルが誕生するには彼女の力が不可欠でした。彼女がグレゴリー・ピンカスに出会って、ピルの開発を依頼するのですが、その時に彼女をサポートしたのがスパイス会社の社長夫人だったマコーミック夫人です。莫大な遺産がある夫人の資金援助を受けて、ピンカスに研究費を渡してピルが開発されました。
——そんな先人たちの歴史に心を動かされて、先生も日本のピル解禁に関わったのですか?
僕はやはりクリニックや電話相談で生の患者と接したことが大きいですが、サンガーの話を聞くにつけて、この人が目標だという気持ちは確かに持っていました。彼女は訪問看護師なんですが、ニューヨーク市ブルックリンの貧民街で、男性の支配を許してきたことが女性たちを苦しめてきたことを感じ取っていた。そしてその人たちを救ってきた。
僕は保健師さんとかに講演する機会がある時、「あなたもマーガレット・サンガーになれる。あなたも、あなたも」と一人ひとりを指さしながら語りかけることがあります。
(続く)
【北村邦夫(きたむら・くにお)】日本家族計画協会会長、市ヶ谷ウィメンズヘルス&ウェルネスクリニック 院長
1978年、自治医科大学医学部卒業(第1期生)。群馬県庁に在籍する傍ら、群馬大学医学部産科婦人科学教室で臨床を学ぶ。1988年から日本家族計画協会クリニック所長(2023年10月末で閉院、相談事業は継続中)。2008年、ヘルシー・ソサエティ賞受賞。2014年、第66回保健文化賞受賞。
『ピル』(集英社新書)、『セックス嫌いな若者たち』(メディアファクトリー新書)、『新版ティーンズ・ボディーブック(新装改訂版)』(中央公論新社)、『入門百科プラス 女の子、はじめます。ココロとカラダの成長ログ』(小学館)、『みんなこうなるの?おとなになるためのベストアンサー71のQ&A』(講談社)など著書多数。
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