先天性風疹症候群で亡くなった娘に伝えたい「お母さん、宿題完成したからね」風疹排除を祝う会
日本の風疹排除がWHOに認定されたのを受けて、先天性風疹症候群(※CRS)の当事者や家族の会「風疹をなくそうの会『hand in hand』」は「VPDを知って、子どもを守ろうの会」と共に2月1日、「風疹排除認定を祝う感謝の会〜二度とCRSを出さない決意の日〜」を都内で開いた。
風疹の予防啓発に力を尽くしてきた当事者や医療者ら100人以上が参加し、これからも風疹をゼロにしていくべく努力を続けていくことを誓い合った。
hand in hand共同代表の可児佳代さん(71)は、妊娠中の風疹感染で長女の妙子さんが先天性風疹症候群を抱えて生まれ、2001年、18歳で亡くしている。風疹排除への活動を娘から与えられた宿題だと思って、13年間頑張ってきた。
可児さんは最後の挨拶で「『妙子、宿題完成したからね』と伝えたいと思います」と語った。
※風疹の免疫のない妊娠20週頃までの女性が風疹に感染すると、ウイルスがお腹の中の赤ちゃんにも感染して、難聴、白内障、先天性心疾患などの障害を持って生まれる病気。2012~2013年の全国的な流行では、14年までに45人のCRSの赤ちゃんが誕生したことが報告されている。
挨拶する風疹をなくそうの会「hand in hand」共同代表の可児佳代さん(左)と大畑茂子さん(右から2番目)、同じく共同代表の西村麻依子さん(右)と先天性風疹症候群を持って生まれた娘の葉七さん(左から2番目)
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排除認定を受けた国でも維持するのは簡単ではない
最初に挨拶した「VPDを知って、子どもを守ろうの会」副理事長の太田文夫さんは、全国の小児科医の協力を得ながら、千葉のマリンスタジアムや広島のマツダスタジアムなど人の多く集まる場所で、風疹排除のための広告を出すなどの活動を続けてきたことを報告した。
hand in handの活動を讃える太田文夫さん
その上で、「hand in handの活動は目覚ましいものがあった」として、当事者の母親たちがトレードマークの赤いTシャツを着て学会や地方の議会、首長、国会議員に訴えたことで、接種率の低い中高年男性に対する公費接種が実現したと讃えた。
次に挨拶した厚生労働省感染症対策部長の鷲見学さんは、2025年9月にWHO西太平洋地域事務局から受け取った風疹排除認定証を携えて挨拶に立った。
風疹排除の認定証を厚生労働省感染症対策部長の鷲見学さんから手渡される可児佳代さん
鷲見さんは、日本では2012〜13年、18年〜19年に大規模な流行が起きた時にCRSの赤ちゃんが生まれた報告があったものの、風疹の追加対策で2021年第3週以降、報告されなくなったと説明。
その上で「風疹の危険性や対策の必要性、またワクチン接種の重要性などについて、ここにお集まりの皆さんをはじめ多くの方々が発信して広く社会に理解を広げてくださったことが、抗体検査受検、予防接種率の向上につながり、今回の排除認定達成に結びついたものと考えております」と感謝の言葉を述べた。
一方、2015年に排除認定を受けた麻疹は、昨年約260例の報告があり、カナダでは国内での麻疹流行により排除認定を失い、アメリカでも2000例以上の報告があって、死亡例も生じている状況を報告した。
「これらの麻疹の事例は、排除認定を受けた国であっても完全に廃することは容易ではない、そして排除認定を維持するための努力が必要であるということを示しています。風疹についても、世界で流行している国や地域があり、海外から国内に持ち込まれる可能性が十分にある」として、引き続き現状の維持やゼロを達成するための協力を呼びかけた。
風疹排除のために力を尽くした故人も偲んで
続いて、風疹排除のための対策作りや情報発信にも積極的に関わってきた神奈川県衛生研究所所長の多屋馨子さんが、乾杯の挨拶をした。
乾杯の挨拶をする多屋馨子さん(左)
多屋さんは、「風疹流行にともなう母児感染の予防対策構築に関する研究班」の班長を務め、風疹排除のために力を尽くしたものの、昨年急逝して排除認定を知ることができなかった産婦人科医、平原史樹氏の名前を挙げ、「一緒にお祝いしたい」と偲んだ。
また、hand in handや風疹の第五期の公費接種の制度を作った関係者に感謝の言葉を述べ、「皆様方の努力と目標を1つにしてきたことが、この風疹排除につながったのかなと心から思っています」と乾杯の音頭を取った。
排除認定は一つのステップ、安心している状況ではない
後半、挨拶に立った国立感染症研究所所長の俣野哲朗さんは、「30年ぐらい前のワクチンに対する冬の時代も経験しているので、そういう頃を思い出してみると、風疹に対してずっと頑張ってきた皆様方の思いは私自身も想像できますし、皆さんもいろんな思いが蘇ってくるのではないか」と、予防接種を広めてきた関係者の努力に思いを馳せた。
国立感染症研究所所長の俣野哲朗さん
その上で、「これ(排除認定)は1つのステップであって、それで安心している状況ではない。例えば、今のはしかの国際的状況を見ると、排除がいかに簡単に破綻するかを目の当たりにしてる状況だ。これから風疹に対する暴露が逆にだんだん減ってきて、皆様の免疫が下がることをどうやって勉強しているかも含めて、ぜひ頑張っていきたいと思っていますのでよろしくお願いします」と、引き続きの協力を求めた。
日本産婦人科医会の安達知子副会長
日本産婦人科医会の安達知子副会長も「世界のドアがない状態からウイルスが持ち込まれ、再び国内で広がるリスクは常に存在しており、これからも国民1人1人の継続的な努力が必要となっております」と、引き続きの対策の必要性を訴えた。
「患者さんが動いて変えなくてはいけなかったことを、我々は反省しなきゃいけない」
続いて、先天性風疹症候群で亡くなった可児佳代さんの長女の主治医を務めていた矢嶋小児科小児循環器クリニック院長の矢嶋茂裕さんが挨拶に立ち、こう語気を強めた。
「風疹の排除に関しては、hand in handの活動や、可児さんの活動が非常に大きいということは間違いない。それは裏を返せば、いかに医療関係者、行政が何もできなかったかということだと思うんです。患者さんが動いて変えなきゃいけない状況であったということで、私たちはそれを反省しなきゃいけない」
当事者が必死に動かなければ状況を変えられなかったことを反省すべきだと訴え、可児さんたちの努力を讃えた矢嶋さん
「社会的な活動をここまで患者さんたちにしてもらったことは非常に大きな意味があるし、専門家集団としては反省しなければいけないところだと思う」
矢嶋さんは自身が会頭を務めた学会で、可児さんに感謝状を贈ったことがある。
「可児さんには、『もうそろそろ引退してください』と、後任に任せたらいいんじゃないですかっていう気持ちを込めて感謝状を渡したんですが、実際にはその後もあちこちでお話されて、さらに忙しくなってしまった状況がある。おそらく最後だなと思って、もうそろそろ可児さんには休んでいただかないといけないと思って今日話していました」
「我々は、麻疹、風疹以外の様々な病気、おそらくこれからも感染者との闘いは永遠に続くわけですが、その時に、患者さんたちが動いてなんとかするのではなくて、我々が指導的に動いてなんとかする世の中を作らなければいけない。可児さん、本当にこれまでの長い長い道のり、皆さんを代表して感謝申し上げたいと思います。本当にありがとうございました」
横で聞いていた可児さんは頭を下げながら泣き崩れ、矢嶋さんがそっと支えた。
私たちのように風疹で苦しむことのない社会をぜひ作って
次に国立健康危機管理研究機構国立感染症研究所応用疫学研究センター長の砂川富正さんが挨拶に立った。砂川さんは沖縄で風疹が大流行した1964年に現地で生まれ、同世代や地域に「風疹児」と呼ばれる、先天性風疹症候群の人が多くいる環境(※)で育った。
※1964年に風疹が流行したアメリカから、米軍基地のある沖縄に感染が広がり、感染した妊婦から生まれた子供たちに先天性風疹症候群が広がった。それによって聴覚障害を持つ学生たちが、甲子園を目指して野球に打ち込む実話をモデルにした「遥かなる甲子園」の演劇をhand in handが企画し、風疹予防の啓発をした。
国立感染症研究所応用疫学研究センター長の砂川富正さん
そして、当時、聴覚障害を持った子供が通った北城ろう学校の生徒や先生を紹介し、登壇してもらった。
元生徒の女性は「私たち『風疹児』は1964年から65年まで約400人以上この世に生を受け、周囲の方々のおかげで昨年還暦を迎えました。振り返ると、3歳の頃、朝から晩まで朝から晩まで毎日言葉、発声の練習で厳しかった母のことを走馬灯のように思い出します。そのおかげで話している自分がいます。小学生の頃、風疹という障害で差別され、周囲に泣かされたことで寂しい思いをしたことが一番辛かったです」と、先天性風疹症候群を持って生きてきた経験を語った。
その上で「これからは私たちのような、風疹障害で苦しむことのない社会をぜひ作ってほしいと思います」と訴えた。
これからも知らない人がいっぱい出てくるから、これからも伝えて
NHKで「ストップ風疹」キャンペーンを始め、風疹の情報や予防啓発を長年続けてきた記者の松岡康子さんは、仲間と共に自治体や企業、医療機関も巻き込んでいった経緯を説明した。
取材に協力してくれた患者や母親たちに感謝の言葉を述べる松岡康子さん
「私たちが取材を続けてこられたのは、可児さん、大畑さん、西村さん、当事者の皆様の地道な活動があって、私たちのメディアに対する取材にも、積極的に協力してくださったおかげだと思っています」
「風疹の排除が決まった後に、中学1年生になった西村葉七(はな)さんに、『これまでたくさん取材に答えてくれてありがとう』とお礼を言いました。そうしたら、葉七さんがこう言いました。『こちらこそ、大事な大事な情報を伝えてくれてありがとう。でも、これからも知らない人がいっぱい出てくると思うから、これからも伝えて維持していくことが大事』。そんなふうに私にはっきりと話してくれました」
「本当にそう思います。こうして葉七さんが生まれてきてくれたこと、そして葉七さんを産んでくれたことに、本当にありがとうと言いたいですし、こうして風疹によって障害が出たり、あるいは生まれてこない状況、なかったことになることがないように、私たちストップ風疹のメンバーはこれからも伝えていきたいと思っています」
「お母さんのことが誇らしい」
続いて、先天性風疹症候群がある大畑茂子さんの三女の花菜子さん(28)が登壇。
右耳に難聴があり、普段の生活には支障はないものの、疲れた時やストレスが溜まった時は聞こえにくくなることがある。
「その度に母が『お母さんのせいでごめんな』と言うのがすごく辛くて、なんで母がこの活動をしてて、どうやったらお母さんが楽になるのかな、どうしたらお母さんが『ごめんな、お母さんのせいで』と言わなくなるのかなってずっと思っていました。私は母が『ごめんね』と言うのが増えるこの風疹の活動に向き合うのが怖かった。でもお母さんはいろんなことと戦って、今日このような排除していただいて、このような会を開けて、すごく私はお母さんのことが誇らしいと思います」
娘たちから花束を受け取る大畑さん(真ん中)ら
「お母さんはいつも『お母さんのせいでごめんな』って言うけど、私は本当にお母さんから生まれて良かったなと思います。最後になりましたが、母の活動をこれまで支えてくださった皆さん、本当にありがとうございました」
母の茂子さんはそんな娘の言葉を涙を拭いながら聞いていた。
西村麻依子さんの娘、葉七さんも「まず、これまで支えてくださったみなさんありがとうございます」とお礼から始まり、「私は今生きてて一番幸せな時だと思います」と語った。
そして子供たちから、hand in handで活動してきた母親たちに花束が贈られた。
まだまだ知らない人がいる 声を上げることはやめない
hand in hand共同代表の西村さんは、「排除認定をいただけるまで日本の中で風疹を減らすことができたのは、私が活動を始めた当初にはもう全く考えられなかった、そんなの無理だろうって思われてたようなことでした。今日お越しいただいた皆さんのお力をお借りしながら、もう本当にたくさんお借りしながらここまで来れたと思っております」と感謝の言葉を述べた。
hand in hand共同代表の西村麻依子さん
hand in hand役員の大畑茂子さんは「最初は顔も出したくなかったですし、自分が妊娠中に風疹にかかってしまって子供を産んだことを誰にも言いたくなかったです。一生隠れていこうと思っていました」と語り始めた。
hand in hand役員の大畑茂子さん
それでも「このことを1人でも多くの人に伝えて、絶対に風疹は流行らしたらあかん、1人でも多くの人に風疹は怖い病気なんやでって伝えていかなあかんっていうところから、この12年間がむしゃらにやってきました」と、二度と同じ思いをする親子が出ないように頑張ってきたことを振り返った。
「何度も何度も、もうやめたい、もう終わりたい。何度も思いました。風疹排除を目指して今日まで頑張ってきて、今日このように皆さんにおめでとう、よかったねと言われ、可児さんの涙を見て、私は最近ずっと可児さんを休ませてあげたい。そう思ってずっと可児さんを見てきました。本当に今日この日が迎えられて、こんなに嬉しいことはありません」
風疹排除が認定されたが、歩みを止めるつもりはない。
「風疹って怖い病気やでって言うのは。ここにいる先生たちと一緒に、私も声を出すことは絶対にやめません。まだまだ知らない人がいます。先天性風疹症候群の子供が生まれないように、そしてなかったことにされる命を守るために、私もこれからも声を出し続けたいと思います」
「妙子、宿題完成したからね」
hand in hand共同代表の可児さんは、「今日は本当に本当にありがとうございますと言うしかない」と挨拶を始め、13年前に活動を始めた時は59歳だったのが、この2月の誕生日で72歳になると語った。
娘の妙子さんの写真のそばで挨拶する可児佳代さん
昨年、体調を崩し、学会での啓発活動は難しくなったと思っていた。長いこと立っているのも辛い。周囲からも「もう休んだら」と言われることも増えた。
でも昨年の学会で話した時に、若い人たちから「風疹って、そんな怖いって思わなかった」「感染症って大事なんだね」と言われ、改めて思った。
「やっぱり私たちの生の声を届けていかないと、まだ忘れられてしまう。だから、私の体が動くうちは、もし皆様に必要があるなら、どうぞ可児、大畑に、西村に声をかけてやってください。行けない時はごめんなさいってお断りしますけど、どこにいても生の声を届けたいと思っています。それが、残された私のライフワークになるのかな」
可児さんは娘が18歳で亡くなって13回忌の年、娘と同じ年に生まれた西村麻依子さんが先天性風疹症候群の娘を産んだとテレビに出ているのを見てショックを受けて、二人でhand in handを作った。
「西村さんが娘と同じ年だった。それが1番の大きなショックでした。まだまだ何も変わっていなかった。そんなことはもうダメ。この後、孫の世代にまで同じ思いさせてはダメ。ここでなんとかしないと、私たちがしっかり声を上げないと、ここで止めないとまた悲しい思いをしてしまう」
そんな思いで13年間頑張ってきた。その積み重ねでつかみ取った風疹排除だ。
「私は妙子の母で幸せでした。本当に妙子の母で良かったと思っています。そして、妙子の母として、妙子と共に、今日この日を迎えられたことを嬉しく思っています。これは私の力ではなくて、妙子から『お母さんしっかりしてよ!』っていう宿題を与えられたんだと思って私は頑張ってきました。だから、『妙子、宿題完成したからね。今度はお母さんどう生きるか見せるから、あんたのとこに行ったときにはちゃんと来たことをわかってね』と伝えたいと思います」と締め括った。
先天性風疹症候群で18歳で亡くなった妙子さんと可児さん(可児さん提供)
「これからは同じようなお子さんが出ないと宣言する会」
最後に挨拶に立った川崎市健康安全研究所参与の岡部信彦さんは、「本当は医者の仕事は治すことが最初に来ると思うが、風疹(先天性風疹症候群)のお母さんたち、ご本人は治すことが全然できない。でも同じ子供さんが出ないようにすることはできるかもしれないのが予防だと思います。それがなんとかできたのは本当に皆さんのおかげ。治せなかったのは本当に申し訳ないのですが、これから同じようなお子さんが出ないと逆に宣言をする会なんじゃないかなと思います」と語り始めた。
閉会の挨拶を述べた岡部信彦さん
麻疹の方はいったん排除認定されても、認定が解除される国がいくつか出てきている。
「でも私たちは色々な方にお世話になり、色んな方が後押しをしてくださったので、なんとかこれを維持する次の宿題が出てきた。これをまた続けられるようにするのがこの会の1番の目的かなと思います。これを閉会のご挨拶にさせていただいて、私たちの誓いにしたいと思います。本当に色々助けていただいてありがとうございました」
祝いの会に参加した方達
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