学生時代から障害者の生活支援に関わって 旧優生保護法違憲訴訟で勝訴した時に思い浮かべた顔

障害者支援を専門とし、自身もALSになった弁護士、西村昭彦さん。なぜ障害者に関心を持つようになったのだろうか?
岩永直子 2025.09.15
誰でも

1年前に全身が徐々に動かなくなっていく難病ALS(※筋萎縮性側索硬化症)の診断を受けた弁護士、西村武彦さん(69)。

旧優生保護法違憲訴訟の共同代表など障害福祉関連の訴訟も数多く担当し、障害のある人の後見人業務、「就労継続支援B型作業所」の運営など、長年、障害者を支援する活動を続けてきた。

自身が携わってきた仕事は、今、障害当事者となった自身の在り方にどんな影響を与えるのか。

これまでの西村さんの歩みを振り返ってみよう。

ロングインタビュー、第2弾。

数々の訴訟を担当してきた札幌地方裁判所の前で(撮影・岩永直子)

数々の訴訟を担当してきた札幌地方裁判所の前で(撮影・岩永直子)

※手足・のど・舌の筋肉や呼吸に必要な筋肉がだんだん動かなくなっていく進行性の神経難病。治療法がまだ見つかっていないが、人工呼吸器や胃に開けた穴から栄養を補給する胃ろうなどを作って長く生きられるようになった。体が動かなくなっても感覚や内臓機能などは保たれる。

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重度障害者の澤井さんとの出会い

小樽市生まれの西村さんは高校卒業後、東京の私立大学に進学した。住み込みの新聞配達で学費を稼いでいたが、そこで出会った香川県出身の吃音がある男性のことを、その後も度々思い出すことになった。

落ち着きがなく、毎日必ずどこかの配達先に入れ忘れがあるその男性のことを、仲間たちはどこかバカにしていた。その彼が、ある夜ビールを持って「ちょっと喋っていい?」と相談を持ちかけてきた。

「姉から香川で開く結婚式に来いと言われているんだけど、僕はこんなだから行ったほうがいいのかどうかわからない」

その頃、別の大学に入り直そうと受験勉強中だった西村さんは、「行ったら喜ぶと思いますよ」と短い時間で当たり障りのない答えを返した。ところがその夜、彼は新聞販売店から黙って姿を消した。数ヶ月後の冬、彼が上野でホームレスをしていると仲間から噂を聞いた。

「彼はおそらく知的にグレーゾーンだと思うんですが、そういう弟がいることが知られたら、お姉さんが破談になるかもしれない。封建制が残る田舎にいるお姉さんのことを彼は考えて、自分が行方不明になれば出席しなくていいことになり、姉さんが幸せになると思ったんじゃないでしょうか。間違った論理ですが、大事な人の幸せを祈る意味があったのでしょう」

「それに気づいた時に、僕はなぜもっとあの時2時間か、3時間か、じっくり話を聞いてやらなかったんだろうと思いました。その時に彼の心に寄り添えていたら、行方をくらませずに済んだかもしれない。それ以来、僕はそんな出会いがあったら逃げないことを決めました」

21歳の終わり頃に静岡大学法学部に入り直した。そこで入った学生寮は学生運動の拠点となっており、西村さんも没頭することになる。一緒に活動していた部落解放研究会のメンバーから、「登呂に住んでいる澤井さんを助けてやってくれないか?」と声がかかった。

「澤井さんというのは、脳性麻痺で障害等級一級の男性です。歩くなど身の回りのことは何もできないんだけど、すごく頭のいい人。『施設ではなく、地域で生きたい』と福井県の入所施設から登呂に引っ越して、一人暮らしをしていたんです。何人かの支援者の手を借りていたけれど、人手が足りない。だから暇な僕に声がかかったのだと思います」

当時は司法試験も考えていなかったから、自由に使える時間がたっぷりあった。

まずは澤井さんの身の回りの介助をし、澤井さんが重度の障害がある女性と結婚すると夫婦の介助を、子供が生まれると子供の世話もボランティアで引き受けた。

「子供が生まれたら僕が実質保母さんみたいなものですよ。子供にミルクをあげたり、おしめを替えたり、夫妻の介助をしながら、育児にも関わっていました。夫妻のところに来ていた若い保健師さんからは、『西村くんがいなくちゃお子さん死んじゃうのよ』と言われたなあ」

澤井さんの介助をしている時、障害者への差別を実感する出来事に度々出くわした。

澤井さんが「帽子が欲しい」と街の帽子屋に入った時のことだ。自分が車椅子を押して、澤井さんが選んでいる間、店員は澤井さんではなく、介助者の自分にばかり話しかけてくる。

「澤井さんが買うんだから澤井さんに話してくださいよ」と言っても、店員は澤井さんの存在を無視するかのように、介助者に話しかけ続けた。

また、澤井さんのビラ配りに付き添った時のことだ。繁華街でビラを配っていると、そばを通り過ぎた母親が、一緒にいた子供に「言うこと聞かないと、あんな人になりますよ」と言うのが聞こえた。

「酷いな、バカにするなと腹が立ちましたね。でも澤井さんのそばにいると、そんな障害者に対する差別はしょっちゅう感じていました」

学生時代からそんな経験をして、障害者福祉に関心を持っていった。ちなみに、そこでやはり学生ボランティアとして介助に入っていたのが、今は妻となったまゆみさんだ。

37歳で司法試験に合格

その後、アルバイト先の友人が、27歳で司法試験に受かったのを見て、「こいつが受かるなら、自分も挑戦してみようかな」と29歳の時に司法試験を志すようになる。

卒業後はビルの警備員をしながら勉強をしたが、なかなか受からない。すでに教員となっていたまゆみさんと結婚し、養ってもらいながら勉強を続けた。37歳でやっと合格した。

翌年、司法修習生として学んでいる最中に、静岡市の市会議委員や無認可作業所の仲間に呼び出された。

当時はオウム真理教が活動を広げている時で、静岡でも布教活動を強めていた。目の見えない青年が、「オウム真理教に入る。教団の人が迎えにくる」と言って、親から相談を受けていたようだ。「彼を救えるのは西村くんしかいない」と言われ、1週間、司法修習を休んだ。寺などあちこちに連れていきながら、人はどう生きるべきか語り合い、青年を説得した。

そんな風に、障害者をめぐる様々な支援活動に巻き込まれながら関わっていったが、弁護士としてどう向き合うべきかはまだ見えていなかった。

障害者支援の先駆け、副島弁護士と出会い道を決める

弁護士としての方向性を決定づけたのが、障害者支援活動に熱心に携わっていた副島洋明弁護士(故人)との出会いだ。

司法修習生の時に事件の内容を報告する講演を聞きにいき、終わった後「すごく良かった」と感想を伝えると、合宿勉強会に誘われた。副島弁護士が議論するのを見て、度肝を抜かれた。

「副島さんは、簡単に言うと壁をブルドーザーで壊す人。その後の処理は他の人にやらせるんだけど、ジャングルの開発をするように道なきところに道を作る。つまり、勝つか負けるかではなくて、やる以上勝つんだ、という人なんだ。普通の弁護士は判例重視だけど、障害者の関わる問題なんて判例がほとんどない。『それは無理に決まっているよ』と思うところを、彼は突っ込んで突破していく。すごいなと思いました」

当時、障害者は刑事事件では「刑事責任を問えない人」として、度外視されていた。一方で、何人もの人が亡くなるような重大な事件を引き起こすと、「悪いことをしているのだから死刑」「刑務所送りにしろ」と感情的な反応をぶつける人がほとんどだった。

ところが、副島弁護士は「まずは障害者に適正な手続きを受ける機会を与えなければならない。それが憲法の当然のスタンスだ」と主張する人だった。

「それまでの弁護士たちは、今でいう統合失調症の人を不起訴に持っていったり、責任能力がないことを主張したりすることはやっていたのですが、いわゆる知的障害者とか自閉症の人について正面から刑事弁護をした弁護士はいなかった。それを副島さんはやったんです」

風俗業界に知的障害者が多く、経営者に騙されるがままに搾取されているのを知ると、客を装って救出もしていた。

「知的発達障害者人権センター」も立ち上げ、頻繁にニュースレターも発信した。アメリカの司法現場の視察旅行も企画し、西村さんも含めた複数の弁護士を引き連れていった。自分が関わる事件だけでなく、知的障害者や発達障害者が不当に扱われ、事件に巻き込まれ、刑務所に送られるその悪循環を仲間を増やして止めようとするかのようだった。

西村さんはそんな副島さんの姿に感銘を受け、障害者支援の弁護士になろうと決めた。40歳になっていた。

加害の背景にある障害や生い立ち、福祉の問題まで見る

司法修習を終え就職したのは、実家のある小樽市の隣、札幌の弁護士事務所だった。障害者支援だけでなく労働問題もやりたかったから、その分野に強い事務所で働くことを求めた。

「障害者問題はしょっちゅう仕事があるわけではないですから。でも全国を走り回っている副島弁護士が、北海道に来るたびに声をかけてくれて、障害者や親の会、施設の会を紹介してくれました」

当時、全国で問題になっていたのは、暴力団が関わって、知的障害者の日本人男性と海外の女性を結婚させて女性に永住権を持たせ、日本の風俗産業で働かせるという問題だった。障害者は金をむしり取られたうえで、捨てられる。

西村さんは、そうやってだまされた知的障害者側に立ち、離婚させたり、地元に引き戻す活動を行なった。

虐待からの救出事件もよく担当した。

「札幌の施設協会や親の会は、北海道では虐待はないですとみんな言うわけです。でも、僕の講演などを聞いた人たちが、『西村さんなら助けてくれる』と相談してくれた。平成10年ぐらいから11年ぐらいにかけて、虐待からの救出をいっぱいやりました」

酷い例だと、身体的な虐待を日常的に受け続け、1600万円も奪い取られていた人もいた。

「牧場で働いていた男性なのですが、札幌に住んでいる親戚が『うちで面倒見ます』と連れていって、1600万円も奪い取っていました。公営住宅の部屋に住まわせていたのですが、その畳に正座させて被害者に根性焼きをするわけです。助けた時は身体中根性焼きの火傷だらけでした」

男性は、そこから逃げて、お金がないので車上荒らしをして捕まった。警察から西村さんに連絡があり、「刑事事件にするよりも、救ってあげてほしい」と頼まれた。

「当時、僕は、似たような刑事事件の弁護を1年間20件ぐらいやっていました。みんな国選弁護人はやりたがらない。僕みたいな駆け出しでやる気のある人は少ないし、きちんと接見にも来るから、警察にも人気がありました」

「一見、車上荒らしの加害者のように見えるけど、実はそういう背景があってやってきたんだよというところまで面倒を見ないとおかしい。障害のある人が犯した凶悪な犯罪でさえ、なぜここまでに至ったのか、その障害や、その生い立ちや、ものを考える力のなさ、それを助ける人のいない福祉の問題に追い込まれたのではないかと考えなくてはいけない。結果だけ見て、『あんたは極悪人だ』というのは簡単ですが、それは違うのではないかと僕は思っていました」

障害のある被疑者の接見の時、スーツは着ないことにしていた。

「障害のある人は学校では先生に、働いていると社長に変なことばかり言われている。だから『背広を着ている人は偉い人で、はいはい言っていればいいんだ』という人生を送らされている。だから警察官にも検事にも『はい、はい』と言ってしまうけれど、それに対して弁護士は『違う』と言わせなければいけません。真実を語らせなきゃだめなんだ。出会った瞬間、『また偉い人か』と思わせるのではなく、『なんだこのおじさん』と思わせるところから始めないと。僕は安心させるのが上手いんです。それが僕の専門性です」

そういう心持ちで、これまで百数十件の障害者の刑事事件の弁護を続けてきた。障害者弁護は儲からない。バブル崩壊後、急増した破産事件の対応で稼いだ分を、障害者支援に回した。

旧優生保護法違憲訴訟の共同代表として

西村さんを紹介する時に、よく言及されるのは「旧優生保護法違憲訴訟」の共同代表としての仕事だろう。1948年に制定された旧優生保護法に基づき、強制的に不妊手術を受けた障害者たちが、国に対して損害賠償を求めた訴訟だ。

弁護団は、個人の尊重や、生命、自由、幸福追求の権利を保証した憲法13条と、法の下の平等を保障した憲法14条に違反すると訴え、不法行為から20年で賠償請求権が消滅する「除斥期間」の適用も認められないと主張した。

最高裁は2024年7月、原告側の訴えを全面的に認め、国に賠償を命じた。

この仕事について西村さんは、「僕は何もやってませんよ。先行したのは仙台地裁で、先頭を走るのはめちゃくちゃ大変ですが、他はそれに続くだけです。共同代表も他の地域の弁護団は若い弁護士ばかりだったから、経験がある僕が頼まれた。勝てるという見込みを持っていなかったから、謝るのが得意な僕が『じゃあなりましょう』と引き受けただけです」と謙遜する。

だが、この訴訟に賭けた思いを尋ねると、こう返ってきた。

「障害者に対する偏見と差別を、この法律が助長してきたと思います。国が障害者の子孫を残してはいけないと法律で言っているわけですから、当然、全ての障害福祉政策とか、障害者に対する社会的な見方とかに関わってくる。こういう法律があるということ自体が、我々が生きている社会の中で、劣等な人がいるんだという見方を助長してきたことが間違いありません」

訴訟の資料を書く時に気がついたのは、このような障害者差別がどう起きたかについて、文献があまりなかったことだ。

「障害のある人は早く死んでしまうような、適切な医療もない時代ですから。優生保護法の立法目的は簡単にいえば『この人たちは劣っている。この人たちが結婚したら、同じような人が生まれる』ということ。これは科学でもなんでもない、思い込みです。そこを僕は直したいと思って弁護団に入ったのです。ただ裁判での争点は、除斥期間の問題でした」

「憲法13条には個人の尊厳の文字はあるのですが、昭和23年当時、それは障害者にとっては画に描いた餅でした。それに昭和23年時点では、戦争に負けて、食うものもないのが現実で、人を増やさないようにしようとしたのもやむを得ないそういう時代背景もありました。でも、その後、高度成長を経て豊かになってきたのだから、法律を変えなくちゃいけなかったのに1996年まで変えなかったわけです」

「2024年7月3日の最高裁は、個人の尊厳を保障した憲法13条、法の下の平等を保障した憲法14条違反だと認定しました。そして、障害のある人達への情報保障がない中での除斥期間の主張を認めませんでした」

最高裁の判決が出た時、法廷で西村さんは涙を流した。そして、自分を障害者支援に導いてくれた澤井さんのことを思い出していた。

国は今後、優生保護法の検証委員会を立ち上げ、なぜこのような法律が作られたのか、この法律が温存されたことで、我々の社会にどのように障害者への差別が広がっていったかを議論する。西村さんは、自分が支援してきた障害者が受けてきた差別を想いながら、この検証作業が自分も含めた障害のある人が生きやすい社会の実現に役立つことを願っている。

(続く)

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