母からの暴力、父からの性的虐待 トラウマから逃れたくて中学生の頃から市販薬に頼った 

幼い頃から母親の心身への虐待や父親からの性的虐待に苦しんできた三留千衣沙さん(仮名)。フラッシュバックから逃れるために、唯一頼りになったのは市販薬のオーバードーズでした。
岩永直子 2024.10.17
誰でも

若者の間で広がっている市販薬のオーバードーズ(OD、過量服薬)。

ハイになったり、気分を変えたりするために使う人が多いですが、時には意識を失い、死につながってしまうこともあり、深刻な社会問題になっています。

幼い頃から虐待を受け続けてきた大学3年生の三留千衣沙さん(23歳、仮名)も、トラウマのフラッシュバックに苦しんでいる時、唯一頼りになったのは市販薬でした。

三留さんの半生を聞きました。

精神科入院中に通学していた時の写真。初めて外出が許された時で、入院して3ヶ月も外に出ていなかったので気持ちが弾んでいた(三留さん提供)

精神科入院中に通学していた時の写真。初めて外出が許された時で、入院して3ヶ月も外に出ていなかったので気持ちが弾んでいた(三留さん提供)

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両親から虐待を受け続け

幼い頃から、両親から虐待を受け、児童養護施設や児童心理治療施設と自宅を行ったり来たりの生活だった。

両親は成績優秀な6つ上の姉にはあまり手を出さない。自分に対しては高齢出産で生まれたせいか、育児のストレスが強かったらしく、何かあるたびに当たってきた。

「中学受験を目指して塾に入った頃から虐待はひどくなりました。母からは殴るなどの身体的な虐待と言葉による心理的な虐待、父からは性的な虐待を受けていました」

自宅でドリルをやっていると母は火のついた蝋燭を近づけてきては、短時間で解くように脅した。時間内に解けないと火を押し付けられる。「お姉ちゃんはこんな成績じゃなかったのに」。姉と比較されては、暴力を振るわれた。

父は物心つく頃から一緒に風呂に入っている最中に自分の体を触るようになった。当時は何をされているかわからなかったが、小学校低学年の頃には無理やり性交もされていた。

「学校で男子たちが冗談混じりで性的なことを話すようになると、『あれ?これってお父さんが私にやっていること?おかしいんじゃない?』と初めて気づきました」

自分の家族はおかしいと思っても、誰にも相談することはできなかった。小学2年生の時に身体の傷を養護教諭に気づかれ、児童相談所に通報された。

「何があったのか聞かれ、児童心理治療施設(※)に保護されました。でもその時はまだ親のことを好きな気持ちが残っていたので、全て話すことはせず、親を庇っていたと思います」

※虐待などで心理的問題を抱える子供を、心理治療を行いながら生活支援する施設。

1年ぐらい施設で過ごして自宅に戻った。父には抵抗できるようになって性的虐待は止んだが、母親からの暴力はさらに激しくなった。

初めての市販薬オーバードーズで救急搬送

家族や家はまったく安心できる場所ではなかった。小学校5年生の時に再び児童相談所に通報され、児童養護施設に入所した。

その頃は気づかなかったが、虐待を受けるたびに、自分の手を引っ掻いたり、自分のことを殴ったりする自傷行為をするようになっていた。

「毎日キツいけれど、逃げられないからどうしたらいいんだろうと葛藤を抱いた時に自傷行為をしていた気がします」

小学校の頃にいた児童養護施設近くの公園に、高校生になって行った時の写真。小学校をサボった時はここに来て、ブランコに乗って暇を潰していた(三留さん提供)

小学校の頃にいた児童養護施設近くの公園に、高校生になって行った時の写真。小学校をサボった時はここに来て、ブランコに乗って暇を潰していた(三留さん提供)

中学の頃から聴き始めたのが、曲名に「リストカット」や「スーサイド」などの言葉が入っているビジュアル系バンドだった。そのファンたちのTwitterのアカウントで知ったのが、咳止めのオーバードーズだった。

「当時はまだ販売もあまり規制されていなくて、『飲むとふわふわしてすごくハッピーになれる』『コスパのいい市販薬』とファンの中で出回っていました。中学生で買っても特に何も詮索はされませんでした。そこから沼にハマっていったんです」

最初に飲んだのは中学1年生の時。60錠入りの瓶を買って、放課後、学校の屋上で全て一気飲みした。

「無意識に死んでやろうと思っていたのでしょう。自殺を悪いこととは思っていなかったし、楽になるなら、死ねるならそれでいいと思っていました。すぐに気を失い、先生たちから発見されて、病院に搬送されました」

目が覚めると、病院のHCU(高度治療室)にいた。ODから1日経っていた。両親から虐待を受けていることを知っていた学校の先生は自殺未遂と受け止め、児童相談所に通報。再び児童養護施設に預けられた。1年半ぐらいそこから学校に通った。

「その頃は親から離れられてホッとする気持ちの方が強かった。小さい頃と比べて、なんで親からこんな仕打ちを受けないといけないんだろうという疑問が強くなっていました」

親友の自殺でメンタル悪化、精神科病院に入院

児童養護施設から出た中学3年生の時、今度は実家に戻されず、里親に預けられた。その頃になると虐待のPTSD(心的外傷後ストレス障害)が現れ始めた。

「トラウマのフラッシュバックや幻覚症状が出てくるようになって、それを避けたくて、考えたくなくてODをするようになっていきました。誰かが叫んだり怒ったりすると、それが引き金になり、フラッシュバックを起こすようになっていました」

日中もフラッシュバックを起こすので、学校にも通えなくなっていた。メンタルクリニックに通っていたが、オーバードーズの過去があるため弱い漢方薬しか処方されず、症状は軽減されない。

自殺する可能性があると警戒され、里親が出かける時は、包丁などの刃物は全て隠され、ガスも外の元栓ごと止められていた。

その頃、里親の目を掻い潜って手に入れた市販薬を再びオーバードーズした。今度はアレルギーの治療に使う抗ヒスタミン薬だった。

「安くて、120錠ぐらい入っていてコスパが良かったからです。里親が買い物に行っている隙に、自分の部屋で一箱飲んだら、結構長い時間、ケミカルな芸術作品のような幻覚が見えました。夕方には気づかれて、また病院に搬送されました」

幻覚が見えている間は、父親や母親からの虐待のフラッシュバックから逃れることができた。

「幻覚を見ている時はすごくキツいフラッシュバックから距離が取れて、自分としてはめちゃめちゃ幸せでした。オーバードーズは自分にとってプラスの経験だったんです」

だが、自分のことを本気で心配してくれる里親を見て、ODがまずいことだと気づく。必死で謝って退院後は再び里親の家に戻った。しばらく精神状態は落ち着いていたが、同じ部活の親友が、何の前触れもなく自殺したのをきっかけにまたフラッシュバックが悪化した。

「親友は学校でも陽キャで成績もいい子だったんです。でも実は彼女も親から虐待を受けていて、それを苦にして死んでしまった。私は彼女から何も聞いていなかったんです。親友が一人で死んでいったことを受け止めきれませんでした」

再びフラッシュバックが頻繁に起きるようになり、元の状態に戻ってしまった。学校に行けなくなり、リストカットの傷が徐々に深くなっていく。命の危険があると見なされて、中学3年生の1月、精神科病院の閉鎖病棟に入院した。

一人暮らしを始めてODが常習化

精神科病院で服薬治療を受けながら受験し、公立高校に合格した。

精神科に入院していた時に、外出範囲として行くことが許された公園。閉鎖病棟の陰鬱とした雰囲気が嫌いで、毎日外出していた(三留さん提供)。

精神科に入院していた時に、外出範囲として行くことが許された公園。閉鎖病棟の陰鬱とした雰囲気が嫌いで、毎日外出していた(三留さん提供)。

高校1年の8月まで、病院から通学した。両親から「娘を返せ」と殴り込みを受け、職員が怪我をしたこともある児童相談所は、「もう関わりたくないから」と匙を投げた。退院後は自宅に帰され、見放されたと感じた。

「何度も通報されているので、両親は私を逆恨みして暴力がエスカレートしました。顔や体の見えるところも傷だらけになり、高校にも通えなくなりました。授業にもついていけなくなり、退院してすぐ高校を中退せざるを得ませんでした」

それでも中卒の学歴では、親に頼らず生きていけるか不安だ。商業高校に入り直し、一人暮らしを始めた。自分の好きな時間に寝て起きて勉強できる環境が手に入り、安心感を得た。

ただトラウマのフラッシュバックは度々起きていた。一人暮らしで周囲の目を気にせずに済むこともあって、そこから市販薬のオーバードーズは常習化した。

「一人暮らしを始めて、『つらくて我慢できない』のレベルがかなり下がりました。前までは100レベルの苦痛のうち90ぐらいまで耐えられていたのが、30、40ぐらいで『もう無理だ』と感じるようになりました。リストカットやODをやっていました」

当時は流行っていた瀉血もやっていた。注射針を刺して血を抜く方法だ。

「血を抜くと貧血状態になってふわふわするんです。ODの効果と似てる。でもODのように一度やると2〜3日寝込むわけでもなく、リストカットのように傷も残らない。効率がいい方法だったんです。1リットルのペットボトルに血液を出している子もいました」

処方されていた喘息の薬も、ためこんではオーバードーズしていた。

「ふわふわしてフラッシュバックから逃れることができたら何でも良かった。手に入りやすい頭痛薬など、いろいろな薬を飲んでいました」

量は20錠から40錠、80錠とどんどん増えていった。

「自分ではコントロールできているつもりでしたが、はたから見たらおかしいなと思われていたでしょう。高校の先生は自分が色々あって一人暮らししていることを知っているから、注意してみていてくれました。『今日はリスカやってない?』と毎回腕を確認されたりしていたりしました」

気にかけてくれる人はいた。それでも毎日がしんどくて、ODは止められなかった。

(続く)

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なぜ市販薬に頼りながら生きている人がいるのか、取材を続けています。楽になるため、しんどさを忘れるため、楽しむためなど、市販薬を使った体験をお話しいただける方、市販薬に依存している人の支援についてお話しいただける方を広く募集しています。ご協力いただける方は、岩永のX(https://x.com/nonbeepanda)のDMかメール(naoko.iwanaga333@gmail.com)までご連絡をお願いします。岩永が必ずお返事します。秘密は守ります。

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