「お涙ちょうだいにしない」「溜飲を下げさせない」被災者や障害者を描く時に気をつけたこと
盛岡在住の音楽療法士、「かときちどんぐりちゃん」こと、智田邦徳さんが出版した初の漫画作品集『とつこ』(信陽堂)。
被災者やセクシュアルマイノリティ、地方の女性たちなど、社会の隅に追いやられてきた人を見つめ、かけがえのない人生を歩んでいく姿を描く。
創作者として、彼らを描く時に大事にしたことは何だったのだろうか?

かときちどんぐりちゃんこと智田邦徳さん
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自分の価値観に合わせて描かない
——記者の一人としてぜひ聞きたかったのは、被災地を取材するメディアがつらい思いをしている人に対して無神経な存在として描かれています。メディアの一員として苦しい場面だったのですが、こういう経験をなさってきたのでしょうか?
メディアのことは、「とつこ」で、津波で園児を亡くして心の傷を抱えた園長にインタビューしようとする人と、「ほっつ」で震災遺構をお涙ちょうだいの方向に持っていこうとする人たちの2つを描いたと思います。

「ほっつ」より(『とつこ』)
メディアの方は、私自身は基本的に、すごくよくしていただいた人が多いんです。でも、知的障害者の人たちが施設を流されて、山田町の小高い丘の上のホテルにずっと暮らしてたことがあって、そこに毎週行ってあげてくれませんかと言われて通っていたことがあるんです。
私は妹もそうだし、知的障害のある人に慣れてるので、歌ったり踊ったり1時間過ごしてたんです。そこに取材に入ってきた某国営放送のリポーターとカメラマンの方が参加者のリクエストを聞いて演奏しているときに、「それ民放の曲だからNHKの歌に変えてください」と言ってきたことがあったんです。
——冗談みたいですね。
でしょ?リクエストで、 踊るポンポコリンを弾いていたら、「忍たま乱太郎(NHKのアニメ番組)っていうのがありますよ。すいませんけど、放送するのでそちらを演奏してもらえませんか?」と言われて。
——で、どうしたんですか?
Twitterに書きました(笑)。もちろん演奏もしません。
——それは言語道断ですけれども、私もメディアの一員として、わかりやすいストーリーに落とし込もうとした経験はあります。今回の作品は、そういうのに嫌気がさしてるんだろうな、そういうものではない物語を描きたかったのだろうなと伝わってきました。
真実を見て書いてくださる報道陣の方をよく見ていたので、たまに最初からオチを作ろうとしている人たちがいると目立ちますよね。
——智田さんは東日本大震災では自身も当事者ではあるけれど、描く側の人間でもあります。被災者を描く際に、表現者として気をつけようと思ったことはありますか?
まず、簒奪というか、奪わないことです。あともう一つは、自分の価値観に合わせて、そこであった現象を曲げないこと、損なわないこと。それは、すごく気をつけました。
——創作物であってもですか?
そうですね。創作物だからこそ、傷つきますものね。
お涙ちょうだいのための登場人物を配置しない
——例えば、具体的にこの作品ではこういう描き方に気をつけたということは何かありますか?
今、次の作品集を作ることがあるならば、入れられないなと思っている作品があります。
SNSで発表して2回炎上した作品で、1回目は、女性がケア要員として描かれていると批判されたことがあった。私はその批判をありがたいなと思って、フェミニズムの勉強を始めるきっかけになりました。
2つ目の炎上は、アウティング(性的マイノリティに対して、本人の同意なく、性的指向や性同一性などの秘密を暴露すること)の問題。
性的少数者のことを描いた漫画だったのですが、自分も当事者なのにアウティングと捉えられるようなことを描いてしまった。「いくら当事者でも許されない表現がある」という炎上をそこで経験したんです。
すごく牧歌的に無邪気に、「自分が経験してきたことだから、自分が当事者だから」というふうに創作してはいけない時代だなと炎上から学びました。
——「簒奪しない」「奪わない」という基本姿勢を語られましたが、作品の表現でそれを意識したことはありますか?
例えば、悲しい涙を流すような場面などを入れた方が、読者は気づいてくれるだろうなと思うのですが、登場人物に涙を流させるために、涙を流させるための装置となってしまう人たちが必ず出てくる。
いくら創作物でも、お涙ちょうだいのためにそこに配置するのは、架空の人物であっても、やはり何かを奪っている感覚はあります。
——あまりに悲しいことが起きた時は、実際に泣かないこともありますしね。
そうですね。私もあまり涙を流さない方なんです。
フラットに楽観主義で描く
——また、「社会から逸脱した存在」に関心を持ってきたとおっしゃっていましたが、女装をする「カメヤ」のおじさんとか、「とつこ」や「ムシデン」の障害のある人や虐待を受けてきた人、「ほっつ」での同性に対する恋心など、たくさん描いているのはなぜでしょう?ご自身も妹さんが障害があり、精神科病院に勤めていて身近な存在ではありますね。

「ほっつ」より(『とつこ』)
まずもちろん、私自身がそういう方達に接してきましたからね。自分も当事者ですし。
また、こういう人たちを表現する上で、フラットに描くにはどうしたらいいだろうという、創作上の自分の挑戦でもあります。
こういった人を出して、例えば虐げられていたのを、やり返してスカッとさせるとか、SNSの漫画で最近多いじゃないですか。私ね、「溜飲を下げる」ってすごい依存性のあることだと思っています。だからこそ、溜飲を下げさせない障害者や弱者の描き方を目指したいという思いはあります。
——作品の中で溜飲を下げさせると、あたかもいいことをしているように見えますね。障害者が意地悪をしてた人にやり返して胸がすくとか。自分を正義の立場に置くそんな描き方もありますが、そんな描き方をしないのはなぜなんですか?
現実にそんなことはないですしね。
——むしろ、社会的に弱い立場に置かれているようで、虐げられる存在であるだけではないことを描いています。まさにフラットに描く感じですよね。
弱者だった人がやり返すんではなくて、その人たちが置かれているところに我々がもうちょっと視線を忍ばせていって、きちんと、解像度高くその人たちの身の回りを見ようということだと思うんです。

「ムシデン」より(『とつこ』)
——「とつこ」でも「ムシデン」でも障害があり、亡くなったり、虐待を受けていたりして、つらい立場に置かれているわけですが、その人独自の魅力やその人を大切に思う人が描かれています。そんな人と再会し、読者としては気持ちが楽になります。良かったという気持ちになれる。これはフラットに描きながらも、もう少しいい世界を求めたいのでしょうか?
「ムシデン」は私もハッピーエンドのつもりで書いたんですが、見方によってはそう受け止めない読者もいるんです。ある友達は、「ずっと放っておいた後悔の涙なんじゃないの」と言っていました。そういう見方もあるのかなと思いました。
——私は喪失の痛みを抱えた主人公が、再会して、再生する物語だと捉えていました。希望を感じました。
私も突然亡くなったパートナーとは夢で会いたかったので、それが原型になってるのかもしれないですね。
——作品って、すごく悲劇的な終わりもあるのかもしれないし、失ったものは失ったままなのかもしれない。現実は変わらないのかもしれないけど、捉え方が変わることもあるのですかね?描き手の願いを感じるのですよね。
私は10代の時からずっと「Optimist(楽観主義者)」という言葉が気になっていて。フランク・キャプラという監督をご存じですか?
——はい。『或る夜の出来事』や『スミス、都に行く』、『素晴らしき哉、人生!』など、まさに楽観主義やヒューマニズムに満ちた映画を輩出したアメリカを代表する映画監督ですね。
私、初めて映画として認識したのはフランク・キャプラの映画だったんです。創作物の最後があまりにじとっと悲しいのがちょっと苦手なのは、フランク・キャプラのせいかもしれないですね。
フェミニズムも勉強して
——自分で一番気に入っているのはどの作品ですか?
ストーリーが1番降りてきて成功したなというのは「ムシデン」です。だから、「これ以上『ムシデン』のようなものは描けないです」ってあちこちに言ってるんです。
幼い頃、家には住み込みのお手伝いさんがいた。名前はとどこ。働きものの彼女は家事を何でもこなし、素朴な遊びをたくさん教えてくれた。とどこと過ごす夢のような日々。しかしそれは、思いもしない形で終わりを迎える。もう一度、とどこに会いたい......。
勉強して、すごく描きたいと思って書けたのが、「媼(おばば)と鴉(からす)」
山深い集落に志願して赴任した小学校教師ハルさんは、牛小屋に住み着いたウタさんとあわ坊母子を引き取って一緒に暮らし始めた。ある日、集落は山火事に巻き込まれ......山村のシスターフッドの物語
これは農村のフェミニズムの本を読んだのに触発されて描いた作品です。聞けば聞くほど、岩手は昔、女性の扱いのひどさがあった。

「媼と鴉」より(『とつこ』)

「媼と鴉」より(『とつこ』)
この中に出てくる「あわ坊」という子供の名前も、岩手のあるコミュニティでしか通じない言葉なんです。
——どういう意味ですか?
外から嫁いできて、夫がいる。夫の両親と同居するわけです。あわ坊というのは、舅に孕まされて産んだ子供という言葉なんです。だからこの母子は家にいられなくなった。

かときちさんの創作ノート。時代考証など、しっかりと調べて丁寧に描く。
——なるほど。昔ながらの男尊女卑的な世界観の中で、女性同士助け合いながら生き抜いてきた姿も描いているわけですね。
岩手の田舎では、女性は牛や馬と同じ扱いだったわけですよね。
心にちょっとさざなみを立てて
——弱い立場に置かれている人に目を向けている作品集ですよね。ご自分がそういう人を目を向けるような生き方をしてきたということでしょうね。
福祉の世界にもいるし、障害がある妹がいるきょうだい児でもあるし、障害者の人に育ててもらっています(※)。しかもセクシュアルマイノリティですしね。
※智田さんの父は盛岡市の精神科病院の院長で、就職先が見つからない精神疾患を持つ患者さんをお手伝いさんとして雇って、子供の世話をしてもらっていた。
——そういう本を初の作品集として出せたことについてはどう思いますか?
嘘偽りなく、自分のこと以外のことは描いていません。どこかから借りてきたような言葉も、あまり使わずに描けた。これが最初に出せて本当に良かったですし、見つけてくれて本にしようと言ってくださった方に本当に感謝してます。

——どんな人に読まれてほしいですか?
何かにものすごく怒りを抱えていたり、ものすごく傷ついたりした方がどう読んでくださったのかが知りたいから、そういう人に届いてほしいですね。
ソーシャルネットワークを見ていると、すごく絶望している人が多くないですか?
——みんなきつい時代ですね。
むしろさらにその怒りを助長させてしまったり、さらに傷つけてしまったりするのかもしれないけれども、穏便に「感動の1冊です」という風に終わらずに、ちょっと心にさざ波を立てるような本であってほしいと思います。
——つらい思いをしている人や弱っている人は、支援の対象であるとか、手を貸さなければいけない人、力がない人と見られがちですが、この作品集の主人公たちは、つらい思いをしているけれども、一方で、とても大事なものを得ていますよね。いつまでも忘れられない人、会えなくなって悲しくて仕方ない人がいるということは、そんな人たちと出会えた経験があるということでもありますね。
最近、「足るを知る」という言葉に欺瞞性を感じていて、「古古米でお前ら国民は満足しろ」みたいなことを連想させるような言葉だとも思うのですが、でも、ある意味、自分の中の在庫整理すると幸せに気づくみたいなことありますよね。
「ああこういうものがあったのか」とか、「私はこういう体験をしてきた」とか、「こういう繋がりがあった」ということを、今まで気づかなかったことを、何かをきっかけにして振り返る。そうすると、「私は確かに満たされていたかもしれない」と気づくんじゃないですかね。
(終わり)
【かときちどんぐりちゃん(本名・智田邦徳)】漫画家、音楽療法士、一般社団法人「東北音楽療法推進プロジェクト」代表
1967年生まれ。岩手県盛岡市在住。日本大学芸術学部音楽学科卒業後、盛岡に戻り、音楽療法士として活動。東日本大震災発生後は、三陸沿岸を回り、音楽療法や体操、おしゃべりなどを行うサロンを通じた被災者支援を続けている。著書に『推し嫁ルンバ』(KADOKAWA)。共著に『音楽療法・レッスン・授業のためのセッション ネタ帳〜職人たちのおくりもの』『心ふれあう セッション ネタ帳For Kids』(ともに音楽之友社)がある。
医療記者の岩永直子が吟味・取材した情報を深掘りしてお届けします。サポートメンバーのご支援のおかげで多くの記事を無料で公開できています。品質や頻度を保つため、サポートいただける方はぜひ下記ボタンから月額のサポートメンバーをご検討ください。
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