マデイラワインに人生を捧げて 拡張型心筋症を抱えながら店を開け続ける理由
ポルトガル・マデイラ島の酒精強化ワイン「マデイラワイン」の品揃えでギネス記録も持つ、カフェバー「レアンドロ」(東京・大塚)。
店主の鈴木勝宏さん(65)は、拡張型心筋症を抱えながらこの店を開き、度々、倒れながらも17年間店を続けてきた。
昨年から今年にかけては、心臓や脳の手術を受け、9ヶ月の療養を経て10月に店を再開したばかりだ。常連客の一人でもある私は、この店に人生を捧げる鈴木さんの歩みを取材した。
復帰してからは、一人で倒れたら危ないからと妻のミチ子さんと二人で店に立つようになった。斜めがけをしているのは補助人工心臓のバッテリーだ(撮影・岩永直子)
26歳で拡張型心筋症と診断
病気との付き合いが始まったのは、宅配便のトラックドライバーとして働いていた26歳の頃だ。咳が止まらず、体がだるい。最初は風邪じゃないかなと思っていたが、症状がいくらなんでも長引き過ぎた。
8月に休みをもらって近所の病院に行ったら、最初は「慢性胃腸炎」と言われた。処方された薬を飲んでも良くならず、大学病院を受診。医師に「君は心臓が大きいね」と言われたが、原因がよく分からない。
経過観察を続けて2ヶ月が経った頃、自宅のトイレに座っていたら突然立ち上がれなくなった。妻のミチ子さんを呼んでタクシーで病院に行くと、心臓が膨れ上がっている。心臓の下にある部屋「心室」が拡大して血液を全身に送り出せなくなる難病「拡張型心筋症」と診断された。
薬物治療を受けながら、4ヶ月入院した。
「退院後、体が弱っていたので家で筋トレをやっていたら、また体調が悪くなって動けなくなりました。会社が大好きだったので、その時はもう元の仕事に戻れないなと思って自殺しようかとも考えました」
翌年5月に心臓が肥大し、再び入院。集中治療室で56日間過ごし、この時はもう二度と自宅には帰れないのではないかと思うほど辛かった。
根本的な治療は、心臓移植しかない。
「心臓移植なんて億単位のお金がかかるし、万が一、心臓を提供してもらって移植できたとしても、成功して生きられる可能性が低い。それなら対症療法で行けるところまで行こうと思いました」
2回目の入院で体力に自信が持てなくなり、大好きだった会社も辞めた。
カフェバーを始めて料理酒として出会ったマデイラ
しばらく失業保険で暮らしていたが、28歳の時に福祉施設の受け付けとして働き始めた。3年ほどそこで働いた後、手に職をつけようと行政書士の資格を取り、司法書士の資格も加えて事務所を作ろうと思ったが、こちらはなかなか受からない。
この先どう生きるか悩んでいた時、親戚に誘われて、ホテル内のカフェで働き始めた。3年後にはその親戚と一緒に、お酒も出すカフェバーを作った。
この時にオーナーの知り合いのフレンチシェフの指導を受けながら、酒の肴になる料理も作り始めた。その時、料理の香りづけに「マデラ酒」を使ったのが、マデイラワインとの出会いだ。32歳の時だった。
マデイラワイン。加熱熟成するのが特徴で、濃い茶色と独特の熟成香、ブドウの酸と甘味が共存するのが魅力だ(撮影・岩永直子)
「当時は料理酒として使っていたので、飲めるものだとも思っていませんでした。その時点ではハマることもなかったんです」
その後、経営方針をめぐってオーナーと決裂し、独立することを目指した。
「当時、拡張型心筋症は5年で半分が死に、10年後に生きられるのは、5年後に生き残った人間の3分の1しかないと言われていました。人生一度きりだし、いつ死んじゃうか分からない。なるべく悔いを残さずに生きたいと思って、独立しようと考えたんです」
大型トラックの免許を取り、横浜の本牧埠頭での運送業を始めた。朝が早い埠頭の仕事をするために借りたアパートにいつかまた飲食の仕事をやろうと持ち込んだ調味料の中に、料理用のマデイラワインがあった。
「これ飲めるのかな?と思って、その時、なんとなく飲んでみたんです。料理用だったんですが、まあまあ口に合った。これで商売できたら面白いなとその時、初めてマデイラワインを出すバーが頭に浮かびました」
それが40歳の時だ。
48歳で「レアンドロ」をオープン
それからしばらく運送業を続け、5年後に友人を手伝う形で、東京のオーセンティックバーの従業員として働き始めた。
「人と同じことをやってもつまらないなと思いました。マデイラは料理酒として日本に入っていましたが、グラスで飲ませる店はほとんどない。だったら、どうなるか分からないけど、自分がやってみようと思ったんです」
1年目は料理作りに徹し、2年目の2005年からマデイラワインを仕入れるようになった。そうなると裏方の厨房の仕事だけでなく、カウンターにバーテンダーとして立ち、お客さんにマデイラの説明もするようになった。
だが、酒屋から仕入れているだけでは、マデイラワインのことがさっぱり分からないままだ。
「ワインが作られているマデイラ島の様子とか、どういう方法で作られているかとか、当時は情報がなかなか入ってきませんでした。現地に行けば何か拓けるかなと思って、2006年にマデイラ島に初めて行ったんです。そこで飲んで自分の好みのマデイラを買っては、少しずつ品揃えが広がっていきました」
友人のバーで最低3年は働く約束をしていたので、2007年5月まではそこにいた。
そして、その年の11月、東京・大塚にマデイラワイン専門のカフェバー「レアンドロ」をオープンした。48歳の時だ。最初に置いたのは50本程度だった。
問題はマデイラに馴染みのある人がほとんどおらず、なかなか注文してくれないこと。
なんとかこのワインの魅力や味わいを知ってもらおうと、当初は来店した客に、甘口から辛口まで基本の4品種を無料で飲ませる試飲サービスをしていた。
「それで気に入ったら、次のオーダーからお金をもらう。そんな形でマデイラの”押し売り”をしたんです(笑)」
ギネスに挑戦
開店から3年目、ギネスに挑戦しようと思ったのは、「目立ちたかったから」。「世界一を名乗って、店の宣伝をしたかったんです」と笑う。
「仲良くしていた輸入業者が乗ってくれて、その人がしっかり申請書類を翻訳してくれました」
実はこの時店に置いていたマデイラワインは130本だけ。
「他にもっと持っている店はあると思いますが、その人たちはギネスに興味がないんですよ。初めて申請したのは自分だという誇りがあります」
だが、2010年の初めに送った書類は、最初は「マデイラワインでは無理です」と却下された。少し前には都内のシェリー酒専門店がシェリーの品揃えでギネスに登録されている。
「シェリーがいいなら、マデイラだって大丈夫なはずでしょう?」
そう訴えると、「最低100本は揃えてください」と返ってきた。130本あることを証明し、2010年末に無事、ギネス記録が認められた。
時折起きていた心房細動
そのうちマデイラワインを気に入ってくれた常連客も増え、オープンから10年間、1日も休まず毎晩2時まで店に立った。
初めて店に来た客には生まれ年を聞き、その年のマデイラを出す。1973年生まれの私(記者)も、そんな古いワインがいまだにおいしく飲めることに驚き、マデイラワインのことを話すと止まらなくなる鈴木さんの話術に惹かれて15年ほど通い続けてきた。
私の生まれ年、1973年のマデイラワイン。色は濃いですが、ブドウらしい酸や風味がしっかり残っている
元々凝り性だからか、鈴木さんはマデイラ島の郷土料理やお菓子も手作りする。店にいる時間はどんどん長くなり、家にはほとんど帰らず、二人の子供の子育ては妻に任せっぱなしでこの店に没頭した。
その間も、定期的に通院し、時折、心房細動(心房が細かく震えて起きる不整脈)は起きていた。
「心房細動はなくなることはないので、心臓に爆弾を抱えていることはずっと意識していました。ただ長くても4日ぐらいで元に戻るので、だましだまし生活していたんです」
(続く)
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