HPVワクチン、男性定期接種化の費用対効果が悪いって本当? なぜか悪く見積もる計算をしている分析資料の謎
子宮頸がんや肛門がん、中咽頭がんなどを防ぐHPVワクチン。
男性の定期接種化が3月、厚生労働省の専門家委員会で費用対効果が悪いことを理由に当面見送られたが、厚労省に提出された分析資料をよく読んでみると、科学的に妥当な分析がなされたのか疑問が湧く。
WHO加盟国のうち、国による予防接種プログラムがある国の43%(59か国)で男女共に接種対象とされているHPVワクチンが、なぜ日本では「費用対効果が悪い」と評価されたのか。
産婦人科専門医でHPVワクチンの啓発活動をしているみんパピ!代表の稲葉可奈子さんや、理論疫学者の西浦博さんにも取材すると、3つの疑問が浮かび上がってきた。
日本で男性に承認されているHPVワクチン「ガーダシル」(4価ワクチン)。今回の分析も4価ワクチン、3回接種を前提として計算された。男性は定期接種対象ではないので、接種するには自費で3回5万円程度かかる。(MSD提供)
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1つ目の疑問:間接効果の分析に必須な「ダイナミックモデル」がなぜか使われていない
HPVワクチンの男性接種について費用対効果を議論したのは、3月14日に開かれた「第24回厚生科学審議会予防接種・ワクチン分科会予防接種基本方針部会ワクチン評価に関する小委員会」だ。
費用対効果の分析については、厚生労働科学研究「公的医療及び社会の立場からのワクチンの費用対効果の評価法及び分析方法の確立のための研究 」の代表者として、池田俊也・国際医療福祉大学公衆衛生学教授が説明した。
資料として、「ヒトパピローマウイルス( HPV )ワクチン ファクトシート追補版」が提出された。費用対効果の分析は、この資料の40ページから47ページに書かれている。有効性、安全性については問題ないとされ、今回、費用対効果にほぼ注目して議論がなされた。
HPVワクチンが感染を防ぐヒトパピローマウイルスは、肛門がんや中咽頭がん、陰茎がんなど男性もかかるがんに影響することが明らかになっている。ただ、これらのがんの発症率は子宮頸がんと比べて低いので、男性が自らがんにかかるのを予防する「直接効果」だけを検討すると費用対効果は悪くなる。
ヒトパピローマウイルスは、性的な接触(セックス、オーラルセックス、肛門性交、ペッティング)などでうつるため、男性が感染を防ぐことによって、女性に感染させ、子宮頸がんを発症させることを防ぐことにも繋がる。そのことを踏まえて、人口レベルで中で予防効果が広がる「間接効果」も含めて検討することが、男性接種の費用対効果を検討する上では重要だ。
そして、女性も含めた集団への波及効果を分析するためには、性行動の頻度や男女間の感染率などを加味し、接種率の向上でそれがどう動くか見る分析モデル「ダイナミックモデル」によって分析することが必要だ。
今回の分析で参照した先行研究14件全てで使われているが、日本の今回の分析ではこのダイナミックモデルが使われていない。
これについて、理論疫学者の京都大学大学院医学研究科教授の西浦博さんは、「残念ながら、十分にグローバルスタンダードに従った手法で分析されていないように思います。『間接効果』も加味したように書かれていますが、なぜか間接効果は根拠の不確かな固定の数値として記されており、これだと間接効果は検討できていないのと同じだと言わざるを得ません」と首を傾げる。
「ダイナミックモデルを使わない分析は、今回の文脈では不適切」と話す西浦博さん
「男女共に接種率が上がることで、集団の中で感染する機会は減っていきます。今回の分析では、それがダイナミックに捉えられていません。予防接種が進むごとにHPV感染はもとより子宮頸がんそのものが稀になっていく様子が加味されていないのです」
2つ目の疑問:発症予防効果の持続期間 海外よりもかなり短い年数で計算している
また、費用対効果は、HPVワクチンの発症予防効果がどれぐらい続くか、という仮定をどのぐらいにするかで大きく左右される。
つまり、発症予防効果が長く続くという仮定を置けば費用対効果は良くなるし、ここを短くすれば費用対効果は悪くなる。
これについては参照している14件の先行研究のうち、「生涯持続する」という仮定を置いているのが8件、残り6件のうち効果の続く期間について触れていない2件を除く4件は「50年以上持続する」という仮定を置いている。
ところが日本の今回の分析では発症予防効果を海外の研究からすれば極端に短い「20年」を基本とし、その後5年かけて0%になるとしている。「30年」という仮定も分析しているが、それでも海外の研究よりかなり短い前提で計算している。
つまり、日本は男性への費用対効果を悪く見積もる仮定で分析しているのだ。
3つ目の疑問:そもそも女性の接種率が20%台の日本で現実離れした高い接種率で判断するのはなぜ?
男性が接種することで女性の感染や発症を防ぐ「間接効果」は、当然のことながら、女性の接種率が上がれば上がるほど低くなる。女性が自らの接種で防いでいるわけだから、男性の接種を通じて人口レベルでのリスクを下げたり、それを通じて女性を間接的に守ったりする効果は小さくなるわけだ。
ところが、不思議なことに今回の費用対効果分析では、女性の接種率について20、40、60、80%の仮定を置いている。
大阪医科薬科大学医学研究支援センターの研究では、日本のHPVワクチンの女性接種率は推計で21.6%にとどまる。
ワクチンの費用対効果の合格ラインは500万〜600万/QALY(費用対効果の効果指標、質調整生存年)とされているが、日本の現実に最も近い20%の仮定で見るとこのワクチンは費用対効果は、分析手法の問題が見られる今回の分析でさえも良い数値が出ている。
さらに、前項で指摘した発症予防効果の持続期間を、海外の研究並みの「50年以上持続」や「生涯持続」に設定すれば、費用対効果はさらに良くなる可能性が高い。
日本では海外と比べて接種率が極端に低い現実がありながら、現実に近い20%以外に、40%、60%、80%という非現実的に高い接種率を並べて見せ、そちらで「費用対効果に課題がある」と判断していることに疑問を投げかけるのは、みんパピ!代表の稲葉可奈子さんだ。
非現実的な接種率で計算していることに疑問を投げかける稲葉可奈子さん
稲葉さんはこの「費用対効果が悪いため、男性の定期接種化は当面見送り」という報道がなされた直後、以下のような疑問をXに投稿している。
>有効性や安全性に異論はなかった
んですよ。なのに、なぜ見送られたかというと、
>費用対効果に課題がある
からで、確かに、定期予防接種には公費が投入されるので費用対効果の観点は必要。
ですがですね、…
今の日本の女性のHPVワクチン接種率(実施率じゃなくて接種率)に近いのは20%で(20代前半は10%台)、女性の接種率が20%の場合の費用対効果はかなりよいんです。資料の結論にも、女性の接種率が向上した場合には男性接種の費用対効果が悪い可能性が示唆された。と書かれていて、女性の接種率が向上した場合にはですよ?
稲葉さんは「確かに公費を使っての予防接種は、費用対効果を検証するのは大事なこと」としつつも、こう疑問を投げかける。
「なぜ日本の女性の接種率の現状を当てはめて判断しないのか疑問です。女性の接種率が現状、20%そこそこであることを考えると、今回の分析でも費用対効果は良いことが示されています。男性の定期接種は採用と考えるのが自然だと思うのですが、なぜそういう結論にならないのでしょうか」
「百歩譲って、『絶対に今年中に80%の接種率を達成します』という見込みや意気込みがあっての今回の判断ならまだ理解できるのですが、そういう状況でも全然ないので納得し難いです」
稲葉さんは今回の資料を見て、以前、男性の定期接種化を大学生たちと厚労省に要望した時、担当者が「まずは女性の接種率を上げてから」と話していたことが思い出された。
「もしかして、今もそんな悠長なことを考えているのでしょうか。必死に接種率を上げようとしている人たちが努力してもいまだに上がっていないのに、いつ達成されるかもわからない接種率を理由に先延ばしするのは現実的ではありません。逆に女性の接種率が上がらないからこそ、男性接種の間接的な効果は大きくなるので、同時並行でやるべきなのではないかと思います」
西浦さんも、この表について、間接効果を30%、40%、50%と固定して計算していることにも疑問を投げかける。
「間接効果は固定された数値が続くのではなく、接種率が上がって接種者で人口が占められていくごとに感染リスクが下がっていき、接種プログラムが始まって10年ぐらいだとHPV自体の流行状況が劇的に変わります。その動きを加味した推計と、この電卓計算したような表には大きな齟齬があると思います」
接種率が極端に低いこの国で、なぜ命を守る政策判断がなされないのか?
日本ではHPVワクチンは2013年4月に小学校6年生から高校1年生相当の女子を対象に定期接種化されたが、接種後に訴えられた体調不良をメディアが薬害であるかのようにセンセーショナルに報じた影響で、国は対象者にお知らせを送る「積極的勧奨」を9年近く停止。接種率は一時1%未満まで落ち込み、積極的勧奨が再開された今も接種率は伸び悩んでいる。
その前提がある日本で今回、このような費用対効果分析がなされたことについて、西浦さんはこう批判する。
「このワクチンができて子宮頸がんが予防可能であることがわかっただけでなく、接種プログラムを推進してきた国では流行自体を抑え込むのに十分な間接効果が得られてきました。そうすると、子宮頸がんのほとんどが国際的に排絶可能であることがわかってきて、先進国どころかアフリカなどの開発途上国を含めて間接効果を高めることによって制御することこそがこのワクチンの肝であることが知られつつあります」
「日本は最も先進的な国と比較して15年くらい遅れている状況です。国による政策判断の違いで、国民が受ける恩恵に余りにも明確な差が生まれ始めています。その状況を省みず、今回、間接効果をきちんと評価するアプローチが取られなかった。正直なところガラパゴス化にも程があり、その判断が国民の健康に与える結果を考えると、非常に厳しい状況にあると思います」
「ちなみに、女性の接種率が高ければ女性の接種に集中して接種を勧めることが費用対効果に優れるとされますが、女性の接種率が高いところでも適切にダイナミックモデルを利用すると男女共に接種することの費用対効果は良いとイギリスの研究で示されています」
「それを考えると、女性の接種率が極端に低い日本のような国なら、男女両方が接種することは費用対効果が良い可能性が極めて高そうです。それなのに今回、グローバルスタンダードではない、独自色の強い分析で費用対効果が悪いという結論が導き出されています」
「おそらくサイエンス以外の要素が影響しているのだと勝手に想像しますが、その結果、結構な数の命に関わるデータが現れてしまうでしょうから、今後どういう風に軌道修正ができるのか、国民が自分ごととして捉えて皆で真剣に考えないとならなそうですね」
稲葉さんもこう語る。
「WHOが検診やワクチンの接種目標によって宮頸がんの制圧を掲げる中、いろいろな事情があって出遅れた日本はもっと女性を子宮頸がんで失うことのないように積極的に動くべきなのではないでしょうか?」
「科学的な根拠に基づいて粛々と政策判断をすればいいのではないかと思うのですが、そうでないように見えるのは疑問です。国として国民の健康を守ることは責務の一つです。子宮頸がんを防ぐ方法はわかっていて、日本では女性の誰もが手に入れることができるにもかかわらず、国民に理解できる形で届けていないのは、その責務を果たしていないのではないでしょうか?」
「性別関係なく接種する人が増えれば、社会の中で感染する機会は減っていきます。HPVに関連する病気を減らせることができるワクチンですので、接種したい人が男女問わず接種しやすい仕組みを作ってほしいなと思います」
※池田俊也・国際医療福祉大学公衆衛生学教授や厚生労働省にもこの分析の疑問点を質す取材を申し込んでいます。回答があり次第、続報をお届けします。
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