「好きで飲んでいたわけじゃなかった」 初めて家族の問題を人に話せた回復プログラム

腹水が溜まるほどアルコール依存症が進み、自殺を図った後藤早苗さん。どん底からどのように回復していったのでしょうか?
岩永直子 2023.11.18
誰でも

両親が酒に依存する家で育ち、自身も酒に溺れた後藤早苗さん(40)。

朝から晩まで飲み続けて、腹水が溜まるほど体調を崩し自殺を図るが、痛みに耐えられず、救急車を呼ぶ。

そこから、どうやって回復していったのだろうか?

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離脱症状で現れる幻覚

救急車で大学病院に運ばれ、意識が戻るとまず「離脱症状が出るとまずい」と、バッグに入れてあった酒をこっそり飲んだ。持参した酒を飲み干した途端、不安に襲われた。

「病院を抜け出そうと思ったのですが、どこも鍵が閉まっていました。いろいろ抜け出す方法を探していたら、看護師さんが何人も集まってきてベッドに拘束されました。離脱症状がひどくて、泣き叫びました」

症状がおさまったと思ったら、不思議なことが次々と起きた。

テレビの中に外国人の女の子が出てきて、「誰か私を助けてください。臓器移植をしないと死んでしまいます」と訴える。後藤さんが「私の臓器を提供します!」と答えると、その女の子の顔がゆがみ、消えた。

次に数字がいくつも目の前に浮かんでいき、必死に足し算をした。足し算を終えると掛け算になり、必死に計算した。

さらに海外の芸能人が何百人とベッド脇に来て、抱きしめたり、キスをしてくれたりした。

その後、集まってきた看護師から「あなたは臓器を提供しますから、これから死にます」と言われ、MRIのような筒状の機械の中に入れられた。その中から戻ってくると、看護師は「あなたは生まれ変わりました。よく頑張りましたね。おめでとうございます」と祝福してくれた。

全て離脱症状が出ている間に見ていた幻覚だった。

「もうお酒はやめます」と宣言

少し症状が落ち着いた頃、家族が病院に駆けつけ、病名を告げられた。

肝硬変と胃潰瘍、脳の萎縮があった。「これ以上お酒を飲んだら、若年性認知症になる可能性があります」とも言われた。長年の大量飲酒で肝臓は深刻なダメージを受け、進行した肝硬変となっていた。肝臓で分解されないアンモニアが血液に回り、記憶障害が現れる肝性脳症にもなっていた。

自殺未遂で醤油を大量に飲んだのも体にダメージを与え、血圧が異常に高かった。足は浮腫んでパンパンに腫れ、テーピングでぐるぐる巻きにされていた。「浮腫が取れなかったら、切断するしかない」とも言われた。

見舞いに来た姉から「あんたが酒を止めるなら助ける。これからも飲むなら、家族の縁を切る」と告げられた。

その時、思ったのはこんなことだ。

「私、お酒を飲まなくなったらどうやって生きていけばいいんだろう?」

その反面、「やっともう飲まなくていいんだ」とホッとする自分もいた。自分は酒より家族の方が大事だと気づき、「もう飲みません。酒をやめます」と宣言した。

姉は入院に必要なものを持ってきてくれて、いろいろな手続きを代わりにやってくれた。

肝臓と胃の手術を受けることになり、手術前日、姉がお守りがわりの手作りのアクセサリーと、アルコール依存症だった作家、中島らもさんの本を持ってきてくれた。

「自分のことが書いてある、と思いました。書いてあること全てが自分に当てはまる。これがアルコール依存症なのかと理解したのです。中島さんが亡くなったことを知って、これは死ぬ病気なんだなとも気づきました。だんだん怖くなりました」

ただ、生きている時に病院に繋がることができたのから、チャンスだとも思った。

「もう飲んじゃいけない、と素直に思いました」

転院し、依存症の治療へ

最初に入った大部屋には重症の患者さんもいて、夜中に急変して翌朝にはベッドが空いていることもあった。

「死にたい、死にたいと考えていたけれど、目の前で人が亡くなるのを見て、私は命を軽く考えていたのだなと気づきました。シラフの状態で、目の前で死ぬ人、助けるために手を尽くしている人をみると、ものすごく死ぬのが怖い。初めて死にたくないと思いました」

手術前日の夜、怖くてたまらなくなり、姉に電話をした。姉は「とにかく頑張れ」と言ってくれて、姉のくれたお守りのアクセサリーを握りしめた。

母が死ぬ直前に遺した言葉も思い出した。

「あなたは私の分まで生きてほしい」

母親が見守っているから死ぬことはない、と自分に言い聞かせた。

手術は成功した。

手術後、担当してくれた若いケースワーカーは自分の話を聞いてくれたり、買い物に付き添ってくれたりして、心を開ける人だった。その人がアルコール依存症の治療ができる精神科病院に転院することも勧めてくれた。

「同じ依存症の仲間がいて、自分の話をしたり、人の話を聞いたりするんですよ」

それを聞いて、単純に面白そうだなと興味が湧いた。

「退院した後、どうやって生きていけばいいのか不安があったので、そういう場所を紹介してもらえるのはラッキーだと思いました」

ところがいざ転院してみると、最初はさまざまな患者のいる病棟に入れられ、思い描いていたイメージとは様子が違った。

アルコール依存症が進んで認知症のようになっている人や、状態の悪い統合失調症の人がいて、いきなり怒鳴られた。泣き出す人もいる。

怖くて不安で、一人になると泣けてくる。心細くて姉に電話すると「とりあえず頑張りなさい。自分のことは自分でやりなさい」と叱咤された。ここでやっていくしかないと腹を括った。

患者仲間とは失敗話が笑い話に

他の患者にこちらから挨拶をして話しかけ、入院生活のルールなどを教えてもらう。最初は怖かった統合失調症の患者も、状態が良い時は穏やかに話ができることに気づいた。

そうしていくうちに「ここに入院しているということは、私もこの人たちと変わらないんだよな」という気持ちが芽生えていった。積極的に話しかけ、仲良くなっていった。アルコール病棟に移る時に、最初に怒鳴ってきた患者が「移っちゃうの?」と泣いて見送ってくれたほどだ。

「最初はあれだけ嫌だったのに、出る時は寂しくて仕方ないほどでした。統合失調症の人はなりたくてなったわけじゃない。それに比べて自分の人生を振り返った時に、いくら家庭環境に問題があったとはいえ飲んできたのは自分だよなと考えたら、自分は命を無駄にしているなと感じました」

アルコール依存症の病棟に移ると、患者があまりにも普通過ぎて驚いた。自分がアルコール依存症についてほとんど知識がないことに気づく。

回復プログラムでアルコール依存症について学び、院内の自助グループにも参加した。患者仲間の話を聴き、自分の話もする。

最初は「自分はこの人たちより酷いアル中だ」と壁を作っていた。でも酒で同じような失敗をしている人だらけで、「みんな同じだな」と嬉しくなった。とんでもない酒での失敗も笑い話として語り合い、盛り上がった。

自助グループで初めて話した家族のこと

2ヶ月目からは、病院外の自助グループに通い出した。

通常、自助グループはそれぞれが自分の体験談を話し、聴いている人はそれに口を挟まない。

しかし、埼玉県の自助グループの理事長が司会をしている会合に参加した時は違った。自分がアルコールを飲んできた体験を話すと、その人に「なんでそんなに飲んだんだ?」と尋ねられた。

「好きで飲んだんです」と答えると、すかさず、「好きでそんな体が悪くなるまで飲むはずないだろう」と返ってきた。

それを聞いた途端、涙があふれた。確かに好きで飲んでいたわけじゃない。いつも苦しさを紛らわすために飲んでいたのだ。

気がつくと、母のこと、家族のことを泣きながら話していた。家族のことを初めて人前で話すことができた瞬間だった。

「恥ずかしいという気持ちを通り越して、話さざるを得なくなったんです。この人には全部見破られているから、逃げることはできない。自分が隠したかったことを、30人ぐらいの知らない人の前で話す。せっかく入院したんだから全部話してしまえ!と思ったのです」

高校の時に思い切って一度、自分の家庭環境について友達に話したことがある。でも友達は次の日からよそよそしくなり、関係が壊れてしまった。それ以来、これは話してはいけないことなんだと、自分一人の心にしまってきた。

自分が生きてきた中で、一番苦しくて、一番悩んできたこと。でも誰にも話せなかったこと。

「それを安心して話せる場があるのはラッキーなのではないかと思いました。楽になったのです。考え方を変えて、そこからは一生懸命プログラムに取り組みました」

「私だけじゃない」女性の患者仲間の話に救われる

初めて家族のことを泣いて話した日、心配して自助グループ後に後藤さんのそばに駆け寄り、自分の家族の話をしてくれた女性患者がいた。親から虐待を受け、早めに結婚して家を出たが、鬱になり、処方薬とアルコールに依存するようになって入院したという。夫は入院を良く思っていないとも言っていた。

「他の人も親子関係の問題を抱えていると聞いて嬉しかった。私の家族は見舞いにも来ず、他の患者は家族が協力してくれているものだと思っていたのですが、どこも家族との関係がごちゃごちゃしている。自分だけじゃないと思うとホッとしました」

もう一人、外国籍のとても美しい女性も、自分の経験を話してくれた。ホステスの仕事をして、日本人男性と結婚したが歳の離れた夫とうまくいかず、愛人を作ってお酒にハマっていったという。

「自分より大変だなと思いました。家族関係が大変な人が他にもいて安心しました。しかも私のそれまでのアルコール依存症患者のイメージは『くたびれた汚い人』だったのが、二人とも綺麗な人です。私自身が依存症に偏見を持っていたのだなと気づきました」

退院、断酒会に通うが...

4ヶ月、回復のためのプログラムを受けて退院した。

「退院自体はとても嬉しかった。仲間と離れるのは寂しいのですが、それではいけないとも思っていました」

患者仲間の中には、入退院を繰り返している人もいた。

「その人は病棟でも人気者です。ここを居場所にしているんだなと気づきました。それを見て私は逆に、ここを居場所にしてはダメなんだと思った。ここでしか暮らせない人になってはいけない。退院してからが始まりなんだと自分に言い聞かせました」

入院前に住んでいた部屋はめちゃくちゃに散らかっていて、酒も置いてあるし、電気もガスも止まったままだ。回復支援の施設に入ることも考えたが、相談したケースワーカーは「後藤さんの今の状態だったら、今借りている家に戻っても大丈夫」と言ってくれた。

シルバー人材センターに手伝ってもらって家を片付け、電気やガスを通して住めるようにした。

退院後は断酒会に通ったが、その頃付き合い始めた入院仲間だった男性は、自助グループを「あんなのは宗教だ」と否定し、後藤さんが通うのも嫌がった。

アルコール依存症と統合失調症と鬱があるその男性は、退院後、間も無く酒を飲み始め、自宅で友達と飲み会をし、パチンコにハマり、酒が切れたら処方薬を過量服薬していた。問題の多い人だった。

「私はだんだんその人の面倒を見ている状態になって、彼は浮気もし始めました。交際相手とそういう問題を抱えていることが後ろめたくて、私も自助グループや病院にきちんと通わなくなっていきました」

ただ、酒だけは絶対飲まなかった。ストレスから、摂食障害や市販薬依存がひどくなった。

「食べては吐くようになって、鎮痛剤や風邪薬、彼が処方された強い睡眠薬を飲んでしまう。悪い関係性ができ上がってしまいました」

恋人に対しても母親との関係を繰り返す

このままでいけないことはわかっていた。

仲のいい自助グループの仲間に相談し、彼の自宅に置いてあった自分の荷物を一緒に運び出してもらった。気づいた彼に追いすがられたが、振り切ってどうにか別れた。彼は結局、薬への依存が止まらなくて、別の病院に再入院した。

後藤さんはまた、荷物を運び出すのを手伝ってくれた男性と、すぐに交際することになった。寂しくて、誰かに依存せずにはいられなかった。

「自助グループにもちゃんと通っているし、この人だったら大丈夫かなと思ったんです。彼が一緒に住んでいる家族も温かい人たちで、それも魅力でした」

しかし、彼もまたやはり飲み始めた。彼の母親に頼まれて、後藤さんは彼の面倒をみる役割を担った。お金も貸した。そして彼もまた、複数の女性と浮気をするようになった。

「私は恋人との関係でも、親の面倒を見てきた癖が抜けないのです。男性との関係がこじれるたびに頭に思い浮かんでいたのは母親のこと。私の人生っていつもこんな感じだったよなと気づきました」

姉に相談すると、「それはあんたが悪い」と言われた。

「でも姉は『あんたは母親の時と同じことをしている。でも、あんたに対して酷いことをしたその男を私は許さない。あんたのことを私は大切に思っている』とも言ってくれました」

間もなく彼とは別れた。

「私は人間関係の築き方に問題があるのだなと気づいた交際でした。すぐに人の面倒をみてしまうし、自分を中心にして物事を考えられなくなる。自分を優先すると『わがままじゃないか?』と、罪悪感さえ感じてしまうのです。育った家庭の影響だろうと思います」

女性の自助グループ「埼玉アメシスト」の代表に

男性関係で懲りて、1年ほど毎日のように埼玉県内や他県の断酒会に通った。

「断酒会の知り合いも増えて、頑張っていると認めてもらえたのか、ちょうど代表が来なくなっていた女性の自助グループ『埼玉断酒新生会アメシスト』の代表になるよう頼まれました」

代表になるに当たって決めたことは、「先輩ぶった支援はしない」ということだ。

「みんな同じ立場で私は居場所を提供するだけ。一人ひとりが話しやすくなるように、自分の経験した男性問題も話しますし、新しく参加した仲間が摂食障害ぽいなと思ったら自分から経験を話します。依存症の女性は、男性に押さえつけられて人間が怖くなっている人が多い。命令されたり、上からものを言われたりするだけで不安になる人がいます」

「Zoomでの自助グループでも顔や名前を出さなくてもOKにして出入りも自由です。話す内容も断酒のことだけでなくてもいいことにしました。男性が多い断酒会に対して疑問に思っていたのはタテ社会のような関係性です。私はそんな上下関係を作らないようにしました」

自助グループの代表として経験を積み重ねていくと、これまでのように誰かの面倒を見て自分が後回しになる助け方が徐々に変わってきた。

「相手をコントロールしないようになったのです。以前の自分は人をものすごく変えようとして、病院に連れて行かなくちゃとか、私がなんとかしなくちゃという思いが強かった。でも、その人の人生はその人のもので、酒を飲むか止めるかは本人が決めることです。本人に決めさせることができるようになりました」

「『苦しかったら病院に行くしかないよ。病院に行ったら連絡してね』と伝えるようにしています。そして、『飲んでいるあなたとは話したくない。シラフになったら連絡してね』と、相手との間に線を引くようになりました」

「以前の私は人との距離の取り方が近過ぎたのです。『助けてあげている私』に酔っているところもあったのでしょう。でも、自分を大切にしないと、人を本当には大切にはできない。それにようやく気づいたのだと思います」

私の人生を歩むことが母への供養

2023年9月にはASK認定の「依存症予防教育アドバイザー」の資格も取った。これからも、自分のこれまでの経験を生かした活動を続けていけたらと願う。

「私は親が問題のある人でしたが、こんな人生を歩んできたからこそ持てるようになった考え方もある。理不尽に思う経験が、プラスになっている部分もあるんです」

この頃、親の人生についてもよく考える。

母は3人きょうだいで自分だけ可愛がられずに育ち、早く家を出た。若い頃好きだった人とは結婚できず、好きだったブランド服の仕立ての仕事も結婚で辞めた。彼女もまた理不尽な思いを抱えながら生きてきたのだ。

「私の母親であることを求めるから満たされないだけであって、一人の人として見ると理解できた。亡くなった後、母の日記を読むと、そこには『こういうことがあって辛い』と弱い母がいました。そんな辛い気持ちを母もまた、人に言えなかったのです」

「もし母親が友達だったら、理解できる。彼女も辛い思いをしてきたし、好きでギャンブルや酒にハマっていたわけじゃない。そう考えると、バラバラになっていた母の言葉の一つひとつがつながったのです」

それに気づいた時、母に対する恨みのような感情が薄らいでいくのを感じた。

「『あの時ああいう風にしてあげたら良かった』とか、『もう少しわかってあげたら良かった』という思いにもなりました。亡くなってしまったので母に対してはもう何もできないから、自分の人生をちゃんと作って生きていくしかない」

「母の最後の言葉は、『私のような人生は送らないで。あなたはあなたの人生を歩みなさい』でした。きっと、そうすることが母の供養になるのでしょう。肉体はなくなっても自分が忘れなければ心の中で生き続ける。そう考えて、私は私の人生を生きていこうと思います」

(終わり)

【自助グループ相談窓口】

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