腹水が溜まり、歩けなくなっても飲み続けた ひとりぼっちの心を埋めてくれた酒と市販薬
幼い頃から、父も母もお酒やパチンコに溺れていた。
自身も中学時代から酒を飲み始め、いつしか酒なしではいられなくなった。市販の鎮痛薬で気持ちを紛らわせる術も覚えた。
20代でアルコール依存症になった後藤早苗さん(40)。
今は女性だけの自助グループ、「断酒新生会アメシスト埼玉支部」の代表を務め、仲間と共に酒に頼らなくても生きる道を進む。
後藤さんを生きる方向に引き戻したのは何なのか? これまでの歩みを聞いた。
アルコールを断って8年になる後藤早苗さん
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常に酒を飲む両親 秘密を抱える家庭
物心ついた時から両親は常に酒を飲んでいた。
「どこかに車で出かける時も、必ずお酒を持っていって運転しながら飲んでいました。たとえば海に行けば、海の家や浜辺で二人とも飲むから、帰りも飲酒運転です」
自宅でも出先でも常に飲んでいる姿が当たり前だったから、「大人はお酒を飲むものなのだ」と思っていた。
会社勤めだった父は、仕事帰りに必ず泥酔して帰ってきた。
「会社の人と飲んだ後、地元の駅に帰ってから行きつけのスナックにハシゴしてまた飲む。当時は仕事をしているのだと思っていましたが、ただ飲んでいたようです」
夫婦仲は良くなかった。
「父親はたぶん母のことが好きだったのだと思います。でも母は他の男性と不倫していました」
若い頃の母(左)と祖母(右)、姉(手前)(後藤早苗さん提供)
そして、母親はなぜか家族の中で一番小さい後藤さんだけに、不倫のことを打ち明けていた。
「幼稚園か小学校低学年の頃、母親から『好きな人ができた』と相談されたんです。冷静で家族の問題に関わりたがらない3つ上の姉には言わない。私は母の愚痴の聞き役で、家の中をうまく行かせようとするような子供だったので、私には言えたのでしょう」
相手の男性に引き合わされたこともある。
「クリスマスにはその人からプレゼントや手紙をもらっていました。父や姉にはもちろん言えないし、学校の友達にも言えない。母にも『絶対他の人には言っちゃダメだよ』と口止めされていました。常に秘密を抱えていて、私にとって家庭はまったく落ち着ける場所ではありませんでした」
母が失踪、借金取りに追われる日々 小学生から酒を飲み始める
その後、母親は突然、失踪する。後藤さんが小学校1年生の時だ。
「なんの前触れもなく帰ってこなくなって、不安定になった私は登校拒否になってしまいました」
父親が警察に捜索願いを出すと、不倫相手の元にいることがわかった。父親から「離婚しようと思う。二人はどちらと一緒に住みたい?」と聞かれ、父親のもとで暮らすことを決めた。
ところが、そのタイミングで母はまた突然帰ってきた。祖母が「早苗が登校拒否になっているから、とにかく一度帰ってきなさい」と説得したようだった。朝方、ドアをどんどん叩かれて開けると、帰ってきた母に酷く怒られた。
「なんで学校に行かないのよ!私をもう母親だと思わないでよ!」
母親はその少し前からパチンコ屋に入り浸るようになっていた。
当時は父の会社の社宅に住んでいて、その人間関係にストレスを感じていたようだ。父の実家とも折り合いが悪い。夫は毎晩遅くまで飲み歩いて話を聞いてくれない。パチンコ店での人間関係に居場所を見出しているようだった。
「母は結婚から逃げたかったのだと思います。それが酒だったり、不倫相手だったり、パチンコだったりした。失踪して家族からも逃げたのですが、パチンコで多額の借金を抱えて帰ってきました」
帰宅後は借金取りがしょっちゅう自宅に来て、消費者金融から電話が鳴る。「お母さんはいません」。居留守の対応をするのも、小学生だった後藤さんだった。
息を潜めるように生活している最中も、母はずっと酒を飲んでいた。結局、離婚はしなかった父親も、休みの日はテレビを見ながらずっと酒を飲んでいる。
そんな家庭環境で、小学生だった後藤さんも自然に酒を口にするようになっていた。
「両親は私が『飲みたい』というとすんなり飲ませてくれました。最初は梅酒やビールで、そのうち日本酒も飲むようになっていきました」
後藤さんが小学校高学年になった頃、母は自己破産した。
中学になると友達と酒を飲むように
中学校に進むと、バスケ部に入って選手として活躍した後藤さん。初めて打ち込めるものが見つかり、充実していた。
だが、中学3年生で最後の試合が終わって、燃え尽きたようになってしまい、同じクラスの友達と集まって酒を飲むようになる。自営業の友達の自宅は親が遅くまで帰ってこない。子供たちの溜まり場のようになっていた。
「そこでしょっちゅう集まってはお酒を飲んで、『お酒ってこんなに楽しいものなんだ』と覚えました。でも酔い潰れたり、二日酔いになる程までは飲みません。母は、娘が酒を飲んで帰ってきたら家具を壊したり、皿を割ったり、私への暴言・暴力だけでなく、姉や父にも被害が及ぶ可能性があった。それは気をつけていました」
ところが、いつものように友達の家で飲んでいる時、その子の母親がたまたま早く帰宅し、酒を飲んでいるのがバレてしまう。
「その時、なぜかその子のお母さんは『あんたのせいでうちの娘が酒を飲むようになった。あんたと付き合うようになってからこうなった』と私に怒ってきたんです」
自分だけが悪いわけではないのに、ここでも自分一人が問題を抱え込まなければならないのか。理不尽でやりきれなかった。
市販の鎮痛薬依存に
その間も、父は酒に、母は酒とパチンコに溺れる日々が続く。
父も酒に溺れていた(後藤早苗さん提供)
台所には料理酒とは別に、酒と市販の鎮痛薬を置いている棚があった。そして母のバッグの中には鎮痛剤が必ず入っていた。
後藤さんが高校を中退して、17歳になった頃のこと。アルバイトをしている時に、生理痛が酷くて鎮痛薬を多めに飲んだ。
「その時に、酔っ払ったような感覚ですごく楽になったんです。『あ、これは使えるな』と思って、母が鎮痛剤を常に飲んでいたことを思い出しました。あの人もこういう使い方をしていたんだろうなと気づいたのです。私も常備して、嫌なことがあったり、緊張したりした時に飲もうと思いました」
酒とは違って、匂いもしないから周囲にバレないし、10代でも簡単に買える。いいものを見つけた、と思った。市販薬依存の始まりだった。
「それまではいつも不安でいっぱいで、死ぬことがいつも逃げ道として頭の片隅にありました。夕方になって日が沈むと『お母さんは今頃パチンコ屋で何やっているんだろう』と思って不安になる。なぜ自分はこんな嫌な思いばかりしなければならないんだろう、マンションのベランダから飛んで死んだら楽になるかな、誰か心配してくれる人がいるのかなと、そんなことばかり考えていました」
毎週、日曜洋画劇場のエンディングの音楽が流れる時、映画の世界から現実に引き戻されて、いつも虚しさを感じていた。風呂に入ろうと脱衣所にいる時、自分が生きている意味がわからなくなって、息が苦しくなって座り込むことが度々あった。
父親も酔って夜遅く帰ってきては母がまだ家にいないことを知ると、「また男と会っているのを隠しているんだろう」と後藤さんを責めた。辛かった。
誰も自分を心配してくれない。孤独感や無力感でいっぱいだった。
そんな寂しさにどうにもならなくなった時に新たに見つけたのが、市販薬で気を紛らわせる方法だった。
バーテンダーの仕事で酒量が増える
高校は中退し、20歳から東京のバーでバーテンダーの仕事を始めた。
午後3時から開店の準備を始め、「酒の試飲」と称して、いろいろな種類の酒を飲む。
「スタッフみんなが飲んでいるので、昼間から酒を飲むことに抵抗感がなくなりました。カクテルの練習や、ビールをつぐ練習として、営業が始まる前に短時間で飲む。罪悪感も全くありませんでした」
営業中もお客さんがお酒をよくご馳走してくれた。
「『なんでも飲んでいいよ』と言ってくださるので、お店の売り上げになるようにできるだけ高いお酒を飲む。店長は水割りで飲ませようとしていたのですが、ストレートで飲んだ方がお客さんは『強いね』と言って喜びます。バンバン飲ませてくれて、酒量がどんどん増えていきました」
その頃から、飲むお酒はほとんどウイスキーのストレートなど強い酒になった。
休みの日も、店に遊びに行くとタダ酒を飲ませてもらえる。「水だ」と騙されてアルコール度数96度のウォッカ、スピリタスを飲まされたことがあった。
「その時感じたのは、『96度もある酒だったら、手っ取り早く酔えるじゃん』ということでした。酔うことを欲していたのだと思います。母親はパチンコを止めていなかったし、姉は進学で家を出て、両親は別居して、私は母親と二人暮らしになっていました。生活費や家事など、全ての負担が私に降りかかる状態になっていたんです」
母は朝から酒を飲み続け、食事もほとんどとっていなかった。でもその時は気づかなかった。
「母のことでイライラするのが嫌だったので、なるべく見ないようにしていたんです。仕事が終わった後も東京で遊んで、埼玉の自宅にはなるべく帰らないようにしていました」
悪化する母 自身にも現れた手の震え
後藤さんが現状に目を塞いでいる間、母の状態はどんどん悪くなっていった。
「どんどん体調が悪くなって、寝たきりのようになった時も、私は『お前が今までしてきたことの結果だろう?』と冷めた目で見ていました。お金がなくてパチンコに通えなくなり、酒にますます溺れるようになりました。依存症になっていたのだと思います」
海外生活が長く、依存症の治療についても知っていた叔父が、母の様子を知り、「病院に行った方がいい。治療が必要な状態だ」と勧めてくれた。ところが日本では精神科にかかること自体に偏見がある。
「母は『私をキチガイというのか!』と怒って、全く叔父の言うことを聞きませんでした。そのうち離脱症状が出てきて、ご飯も一切食べられなくなっていきました」
後藤さんもますます飲み方が荒れた。
バーでの仕事帰りにクラブに出かけ、そこで出会う男性と遊ぶ。友達と飲んでいる時も途中で虚しくなっては、勝手に立ち去ったりする。酔っ払って、路上で寝ていたこともある。
バーで働き始めたのは20歳の春。数ヶ月後の夏頃には、朝から晩まで常に酒を飲み続ける「連続飲酒」の状態になっていた。
その年の秋には、営業中にたまたま酒が抜け、メジャーカップで酒を計っている時に、手が震えているのに気がついた。
(おかしいな。たぶんお酒を飲めば戻るだろう)
実際、お酒を飲んだら、手の震えは止まった。手が震えるのがアルコール依存症の症状であることは知っていた。
「だけど、私の場合は酒を飲んだら止まったのだから大丈夫なんだと自分に言い聞かせていました。それこそが依存症の離脱症状なのですが......。仕事中に手が震えたらまずいので、予防的にお酒を飲むようになり、さらに酒量は増えていきました」
朝起きたらまず酒を飲む。食べ物はほとんど食べず、体はどんどん痩せていった。
「それでもお酒を飲んだら元気になるので、私はまだ大丈夫だと思っていました」
バーを辞めても飲みながら仕事
周りの友人は後藤さんがたまに酒で失敗しても、「ごっちゃんは酒飲みだから」とその深刻さになかなか気づくことはなかった。
20代半ばになった頃、家に閉じこもるようになり電車に乗るのも怖くなった。友人たちは後藤さんが鬱になったのではないかと心配して、心療内科に連れていってくれた。
受診の時には勢いをつけるために酒を飲み、飲酒量を少なく申告した。医師はアルコールの問題に気づくことなく、鬱と診断し、薬を処方した。
「私はその薬を酒で飲んでいましたが、飲んでも何も変わらない。それでも周りの友達は受診して安心したのか、私のことを良くなったと思ったようです。節酒するふりをして、私はそのクリニックに通わなくなってしまいました」
バーの仕事を辞めて、CD屋に勤め始めた。さすがに酒の臭いを漂わせて働くわけにはいかない職場だ。「これを機に酒に頼るのはやめよう」と一度は決心した。
「その時も鎮痛剤はやめられなかった。でも鎮痛剤をたくさんずっと飲んでいると、喉が渇くし肌が荒れます。それならやっぱり酒にしようと思って、また朝から飲むようになりました」
酒臭さは「朝まで飲んでいたんです」とごまかし、周りからも特に何も指摘されることはなかった。実際、酒を飲むと仕事に集中できた。
寝たきりの母と飲み続ける毎日
だが、それも長続きはしなかった。
ほとんど何も食べないから痩せてふらふらになり、仕事も辞めた。
そのうち、同じように酒だけ飲み続けていた母が立てなくなり、寝たきりの状態になった。一度は入院して体調は少し回復したが、入院中も隠れて酒を飲んでいた。退院したら、結局また元の状態になった。
二人だけの閉じた空間で、延々と酒を飲み続ける。電気やガスが止められても、酒を買い続けた。母はトイレにも立てなくなり、風呂にも入れなくなった。後藤さんは介護しながら酒を飲み続けた。
母の死で悪化するアルコール問題
そんな生活が2年ほど続いたある日、母が自宅で亡くなった。
朝起きて母の様子を見に行くと、既に冷たくなっていた。驚いて救急車を呼ぼうとしたが、携帯電話もなく、窓から必死に「誰か助けてください!」と叫んで、同じアパートの人がやっと来てくれた。
「私もその頃には足がむくんであまり動けなくなっていて、まるで老老介護のような状態でした。母はお酒も最後には飲めなくなっていて、ガリガリのミイラのような状態でした」
駆けつけた救急隊員の人は「もう既に亡くなっています」と告げた。解剖すると、アルコール依存症だけでなく、全身にがんが転移していた。家族のことではほとんど感情を見せたことがない姉も、久しぶりに見る母の姿のあまりの変わりように涙を流していた。
一人になった後藤さんは、そこから引っ越した。
「周りは安心したようです。母親のせいで私がこんな暮らしになったと考えていたのですね。私自身がアルコール依存症であることに、家族も周りも気づいていませんでした」
しかし、一人暮らしになってから、後藤さんのアルコール問題はさらに悪化した。
最後に母親にかけたのは、「お前のせいで私はこんな人生になったんだ」という言葉だった。「母が死んでくれたら私は楽になるのに」と思ったこともあった。
「あんなことを言ってしまったから、母は亡くなったんだと自分を責め、亡くなった時の酷い姿が頭から離れなくて夜も眠れなくなりました。大切な母親をそんなふうに扱った私は人間じゃないし、生きている価値がないとも思ったのです」
「朝、起きると一瞬『母の介護をしなくちゃ』と思うのですが、いないことに気づく。シラフでは現実を受け止められなくて、ずっと飲み続けていました。当時は自分が存在しているかどうかもわからない状態になって、生きているのを確認するためリストカットするようになりました」
歩けなくなり、溜まる腹水「もう死にたい」
足がむくんで痛みで立てなくなった。腹水も溜まってきた。胃も常に痛みがある。痛みを紛らわせるために、さらに酒を飲んだ。その頃飲んでいたのは「大五郎」。飲むと吐くようになり、もったいないから酒を飲む前に喉に指を突っ込んで吐いてから、無理やり流し込む。飲むたびに胃の激痛に苦しんだ。
心配した友達が自宅に来て、後藤さんの姿を見て驚いた。その頃には、ガリガリに痩せて杖なしでは歩けなかった。母の死以降、引っ越しなどをいろいろ手伝ってくれた友達で、後藤さんのアルコール問題にも徐々に気づき始めていた。
「お酒をやめないと、友達をやめるよ」
でも、その言葉は後藤さんには全く響かなかった。
「家庭環境が違うんだから何の説得力もない、と冷めた気持ちで聞いていました。私の話を全然聞いてくれないという不満もありました。私は母親を亡くしたばかりで辛いのだから酒ぐらい飲ませてくれよ、という思いもありました。お前らには私の気持ちなんてわからないだろう、と思っていました」
友達が帰ると「うざいのがいなくなった」と酒を飲む。でも、酔っ払うと寂しくなって電話をしてしまう。「もういい加減にして」と複数の友人から絶交された。
誰からも見放されて、もうダメだ、と思った。
姉に電話をして「もう、死にたい」と訴えた。
「じゃあ、死ねば」
姉はそう突き放した。
「ショックだったのですが、やっと背中を押してくれたという気持ちもありました。元は繋がっていて、一番わかってほしい人にそれを言われた。もうこれでこの世からいなくなっていいんだ、と諦めがつきました。自殺しようと思いました」
死後になるべく迷惑をかけないように部屋を片付けた。今まで出会ってきた人の名前を遺書のような手紙に書き出すと、これまでの思い出が浮かんできた。久しぶりに感情を取り戻し、涙が出た。
「気づいたら、ありがとう、と書いていました。最終的に人間になって死ねると思いました。人間の心がまだ残っていたと思って嬉しかった」
以前聞いたことのある自殺の方法を思い出し、醤油を一気飲みして意識を失った。
しかし、夜中にあまりの気持ち悪さに目が覚めた。吐きまくり、胃の激痛に耐えられず、外に助けを求めて救急車を呼んでもらった。救急車が着くまでにバッグに酒を入れて、再び意識を失った。32歳の時のことだった。
(続く)
【自助グループ相談窓口】
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