「二人一緒にいられるだけで幸せだった」 20年間、共に歩いた写真が見せる平凡で奇跡的な夫婦の形

SNSに投稿された結婚写真がきっかけで、フォトエッセイ集『ふうふ写真散歩』を刊行した島根在住のアマチュア写真家、小池紀子さん。平凡なようで奇跡的な夫婦の物語を写真と共に振り返ってもらった。
岩永直子 2025.08.05
誰でも

一度のデートで結婚。20年間、喧嘩したことはなく、一緒に写真散歩をしながら過ごしてきた。夫が不慮の事故に遭うまでは、こんな日々がずっと続くと思っていた——。

そんな島根県出雲市在住のアマチュア写真家、小池紀子さん(54)と夫の徹さん(64)の歩みを綴ったフォトエッセイ集『ふうふ写真散歩』(飛鳥新社)が5月に出版された。

愛する人が突然、共に歩めなくなった時、片割れを支えるものは何なのだろう?

二人で最後に写真散歩をした出雲で、紀子さんに話を伺った。

フォトエッセイ集『ふうふ写真散歩』を出版するきっかけになり、本の表紙にもなった結婚記念の写真

フォトエッセイ集『ふうふ写真散歩』を出版するきっかけになり、本の表紙にもなった結婚記念の写真

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SNSの投稿がきっかけで、出版が決まる

二人の写真に出会ったのは、たまたまXに流れてきた紀子さんの投稿がきっかけだった。

RINO | Noriko Koike
@RINO30073960
ここに座って、と言われてセルフタイマーで撮ってくれた結婚写真。20年間一緒にいられるだけでシアワセだった。
2024/11/18 19:04
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印画紙や引き伸ばし機など、写真機材があれこれ置かれた畳の部屋で、並んで正座した若い二人が写る記念写真。そこにはこんな言葉が添えられている。

ここに座って、と言われてセルフタイマーで撮ってくれた結婚写真。20年間一緒にいられるだけでシアワセだった。
@RINO30073960

過去の投稿を辿ると、夫婦で互いを撮り合った日常のスナップが並んでいる。だが、いくつか添えられた言葉を読むと、夫の方に何か異変があったことに気づいた。

「二人の最後の写真散歩」

「一緒に笑ってた人が隣にいないことに気づき唖然とする」

「もう一緒に暮らせないとか信じたくない」

「こっちに戻ってきてよ、主人」

RINO | Noriko Koike
@RINO30073960
二人の最後の写真散歩となった。二十年間たのしい思い出しかない。写真があって本当に良かった。
2024/11/13 16:33
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RINO | Noriko Koike
@RINO30073960
朝テレビを見て思わず笑った。一緒に笑ってた人が隣にいないことに気づき唖然とする。こういうの短歌にできたらいいのにね。
2024/11/07 07:28
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RINO | Noriko Koike
@RINO30073960
もう一緒に暮らせないとか信じたくない。普通ほどありがたいことはないんだ。
2025/03/09 20:27
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RINO | Noriko Koike
@RINO30073960
こっちに戻ってきてよ、主人。
2025/03/19 12:11
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フォローして新しい投稿を追っているうち、夫婦で20年間取り続けてきた写真と紀子さんが綴った文章でフォトエッセイ集『ふうふ写真散歩』が出版されることが決まった。あの結婚写真の投稿に16万もの「いいね」が押され、編集者の目に止まったのがきっかけだ。

紀子さんは想像もしていなかったこの展開について、こう語る。

「あの写真に『20年経ってそう思える夫婦って、奇跡のような方たちだと思う』とか、『どんな豪華な婚礼写真よりも素敵ですね』『飾らない夫婦の時間が共有され写真で表現されている。写真は記録はもちろん記憶としても大切だと改めて感じました』などたくさんのコメントが寄せられたんです。コメントの中で、編集者の方から『本を出版しませんか?』とのお話をいただきました」

「夫が常々『写真で自分を残す』と言っていたことを思い出し、本という形で夫の写真を残せたらと思いからお引き受けしました」

二人はどんな人生を歩んできたのだろうか?

写真会場で出会い、「陽だまりのような人だ」

紀子さんは島根生まれ島根育ち。徹さんは、東京生まれ東京育ち。遠く離れて生きてきた二人を出会わせたのもまた、写真だった。

写真が趣味だった紀子さんは2004年1月、東京出張のついでに、写真仲間が参加するグループ展を見にいった。展示された作品を一通り見て、散歩でもしようと外に出た時に、偶然、出口で一緒になったのが出品者の一人の徹さんだった。

「二人で外を散歩する形になり、どちらからともなく自然と会話が始まりました。冬の日なのにポカポカ陽気の小春日和で。カメラのことや写真のことなど話が尽きなくて、私は『今日の天気のように温かい、陽だまりのような人だなあ』と感じたんです。初対面ですぐ、この人とずっと一緒にいられたらいいなと思っていました」

その時、紀子さんが首からぶら下げていたのは、30歳の時に辞めた会社の退職金をはたいて買ったクラシックカメラの名品「ライカM3」。徹さんはその後継機のM2を愛用しており、カメラの好みもピッタリだった。

二人が愛用するライカM3とM2(小池紀子さん提供)

二人が愛用するライカM3とM2(小池紀子さん提供)

「のちに写真仲間からは『ライカM2とM3が結婚した』と言われました。夫は『結婚したら、ライカM3も一緒に家にやってきた』と嬉しそうに仲間に話していました」

その最初の散歩の時に、小さな神社に通りかかり、徹さんから「一枚、写真を撮らせてもらっていいですか?」と言われて、撮られたのがこの写真だ。

出会いの日、徹さんが撮影した紀子さん。ライカのM3を首からぶら下げていた。

出会いの日、徹さんが撮影した紀子さん。ライカのM3を首からぶら下げていた。

その後、長く続く写真散歩の最初の1枚になるとは、この時は思ってもみなかった。

一度のデートで結婚を決め、夫の両親と同居へ

その後、島根に帰った紀子さんは、毎日のように徹さんとメールでやり取りをする。もっと話をしたい。会いたい。3月には、”中間地点”の大阪で落ち合い、二人で太陽の塔を見にいった。一泊して、翌朝一緒に定食屋で朝ごはんを食べた。それが最初で最後のデートだった。

島根に帰って、再び離れ離れになった紀子さんは居ても立ってもいられなくなり、東京の徹さんに電話した。

「『私が東京に行くから!』って電話したんです。実はもう主人が住む蒲田の近くのアパートまで調べていて、『ここに住むから』ぐらいまで、話す勢いでした。とにかく一緒にいたいし、二人が離れ離れでいる方がおかしい。とりあえず東京でどこか住む場所を借りて、近くで暮らせばいいんだと思っていました」

「主人にとっては、もう嵐のような出来事だったと思うんです。のほほんと東京に戻ってきたら、いきなり電話がかかってきて、『一緒に暮らしたい』と言われて。でもそこで拒否するわけでもなく、『うん、わかった』と言ってくれました」

島根で一緒に暮らしていた両親もこの急展開を淡々と受け入れ、父は徹さんの写真を見て「この男は真面目な男だ。顔を見ればわかる」と賛成してくれた。ただ母は、「徹さんのご両親と一緒に住みなさい」とだけ言った。つまり、いきなり結婚だ。

「突然、東京に行く娘が、近所に親戚もたくさんいる主人の家族の輪に入っていけるように、という気遣いだったのだと思います」と紀子さんは、親の心情を慮る。

徹さんの両親も、突然の結婚話をとても喜んだ。

「『一緒に4人で暮らしたい人がいる』とご両親に伝えた時、主人は43歳だったんです。ご両親は長男が結婚するのを諦めていたらしいんですよ。それが突然、結婚したい人がいると言われて、『お嫁さんが来る!』と喜んでくれたんです。その夜、主人の両親は嬉しくて嬉しくて手をつないで寝たそうです。結婚後にお母さんから教えてもらったんですが、それぐらい嬉しかったようですね」

何が幸せなのかをわかっている家族だった

初めてのデートから2週間も経たないうちに上京し、4月から東京大田区の下町にある夫の実家で4人一緒に暮らし始めた。43歳と34歳の夫婦だった。

結婚式も指輪もない。唯一あるのは、夫から「ここに座って」と言われて、セルフタイマーで撮ってくれた結婚写真だけ。一緒にいられるだけで幸せだった。
『ふうふ写真散歩』より

それが冒頭に紹介したカラーの結婚写真だ。

カラーと白黒と、両方で撮っていた結婚写真(小池紀子さん提供)

カラーと白黒と、両方で撮っていた結婚写真(小池紀子さん提供)

新婚当初からの義理の両親との同居は、今時の女性なら敬遠するのが普通かもしれない。だが、紀子さんは「今、思っても泣けてくるぐらい、お父さんとお母さんと主人と4人で暮らした時が1番幸せでした」と振り返る。

仕事を辞めて専業主婦になった紀子さんは、日中、義父母と3人で過ごす時間が多かった。

「本当に、お父さんとお母さんがいい人で。私はお母さんに家事を全て教わりましたし、3人で一緒にお昼ご飯食べた後に枕を並べてお昼寝したりしていました」

4人で一緒に暮らしていた頃、義母と(小池紀子さん提供)

4人で一緒に暮らしていた頃、義母と(小池紀子さん提供)

義父とは一緒にカメラをぶら下げて、写真を撮りながら近所を散歩したり、義父の撮ったアルバムを見せてもらいながら写真について語り合ったりした。

一緒にカメラを持っては近所を散歩しながら撮影した義父の小池三郎さん(小池紀子さん提供)

一緒にカメラを持っては近所を散歩しながら撮影した義父の小池三郎さん(小池紀子さん提供)

「お父さんはそもそもカメラが大好きな人で、その影響で主人は写真を始めたんです。だからお父さんと私は、義理の父娘でもあったけれど、写真仲間でもあったんですよ」

義父の小池三郎さんが撮った家族写真。

義父の小池三郎さんが撮った家族写真。

義父の小池三郎さんが撮った子供の写真(小池紀子さん提供)

義父の小池三郎さんが撮った子供の写真(小池紀子さん提供)

義理の両親に可愛がられて過ごすうちに、気づいたことがある。

「そもそも主人が心が優しくて真面目なのは、お父さんとお母さんが、そういう風に育てたからだと思うんです。本当に家族仲が良くて、主人の両親とお姉さんもすごくいい人です。主人は昭和35年生まれです。豊かな時代でもはないし、決して裕福でもない平凡な人生において、家族みんなで何が幸せなのかを分かってたんだなとすごく実感しました」

「みんなが優しい気持ちで、家族が楽しく、笑いながら、穏やかに暮らす。これほど幸せなことってないんじゃないか。主人の実家は本当に居心地が良くて、一緒に4人で暮らせたあの頃が1番幸せだったっていうのは、そういうところから思うことです」

「この人の写真を一生応援する」

1年ほど4人で過ごした後に、夫婦二人での生活も楽しもうと近くにアパートを借りて独立する。週末の休日には、一緒にライカを持って、東京中、あちこちを写真散歩するのがお決まりだった。

紀子さんは徹さん本人はもちろん、アマチュアカメラマンとして名が知られ、カメラ雑誌に連載も持っていた徹さんの写真に純粋に惹かれていた。そして、結婚した頃、心に決めたことがある。

小池紀子さん提供

小池紀子さん提供

「私はこの人の写真を一生応援するんだと思いました。それまでも主人のホームページの写真を見てファンになっていたのですが、結婚してから色々プリントを見せてもらって『これはただものではない』と気づきました。主人が撮るのはストレートなスナップ写真。写真って結局、自分自身が出るので、生き方もストレートな人でした」

小池紀子さん提供

小池紀子さん提供

自宅に帰ると、互いに撮った写真を見せ合うのがまた楽しかった。

「主人は絶対にここをこうしたらとアドバイスのようなことは言わない人です。『うん、いいね』ぐらいしか言わない。『いいなと思う瞬間を、好きなように撮ればいいよ』とアドバイスを受けてからは、写真を撮るのが一層楽しくなりました」

個展を開いた徹さんを紀子さんが撮った写真

個展を開いた徹さんを紀子さんが撮った写真

愛情表現豊かな”ラテン系男”

いつも周りに驚かれるが、20年の結婚生活で一度も喧嘩をしたことがない。

「逆にみなさんなんでケンカするのかがわからない。喧嘩する理由が聞きたい」と紀子さんは不思議そうに言う。自分もそうだが、徹さんが人の悪口を言っているのを聞いたことがない。互いを大事にし合うことが当たり前の夫婦だった。

真面目そうな外見からは想像もつかないが、徹さんは、紀子さん曰く「ラテン系の男」だった。

「ラテン音楽が好きでしたし、愛情表現もストレート。『のり好き〜』と日常的に言われていましたし、隣の部屋にいると『のりが足りない』とくっついてきて、私がよしよしと頭を撫でてあげていましたね」

紀子さんのことは「のり」と呼んでいた。(小池紀子さん提供)

紀子さんのことは「のり」と呼んでいた。(小池紀子さん提供)

朝、3時か4時に目が覚めると、よく二人で布団の中で語り合った。

「だいたい写真の話や音楽の話をして、最終的には哲学的な話まですることもありました。人はなぜ生きるのか、とか。そんなことを話すのもしょっちゅうでした」

大阪での最初で最後のデートの翌朝、定食屋で朝食を食べていた時、徹さんが突然泣き出したことも忘れられない。

「『今、この瞬間にご飯を食べられない子供たちがいるんだ』と言って、泣き出したんです。弱い立場の人たちに、すごく優しい人なんですよ。別に政治的な話というわけではなく、ガザ地区の子供たちのことをすごく心配したり、普段から視野が広く、弱者に対して思いやりがある人でした」

自然に任せてはいたが、夫婦二人の家族に子供を迎え入れることはあまり考えていなかった。

「とにかく2人でいられたらそれだけで十分幸せだった。それが1番の理由です」

島根でも夫婦で写真散歩

東京で8年暮らし、2012年、島根に二人で移住した。

「私がアルプスの少女ハイジではないですけれど、山が見えない生活がだんだん辛くなってきたんです。2011年3月に東日本大震災が起きたのも大きかった。東京でもし大地震があったら、避難すると言っても人口が多過ぎるしリスクが高過ぎると思いました」

義父母が元々新潟生まれで、幼い頃は新潟の田舎によく遊びにいっていた徹さんも、島根に移住することに賛成した。50代になっていたが転職先もすぐに見つけ、出雲市内に小さな家も買った。

「主人もなんとかなるさと楽観的で、島根に着いたその日から街に写真を撮りに出かけていました。島根でもまた、夫婦で写真散歩を始めました」

自然に囲まれ、出雲大社を初めとする歴史や文化も豊かな街に、徹さんは新たな被写体としての魅力を見出していった。

小池紀子さん提供

小池紀子さん提供

写真仲間に「出雲の写真も見たい」と言われ、夫婦で「出雲通信」と名付けた写真小冊子のシリーズも発行していった。

「東京、島根と住むところはかわっても、私たちはいつも写真で繋がっていました。2004年に初めて、写真展会場で出会って以来、写真散歩はずっと続いていました」

2024年3月24日、二人で出雲市内を走っているローカルな私鉄電車「一畑電車」、通称ばたでんを撮りに行った。車で雲州平田駅に行って入場券を買い、二人で思い思いに撮った。これが最後の夫婦での写真散歩となった。

翌々日は朝から土砂降りの雨だった。その中を外出する徹さんを見送った。それが、夫婦で会話を交わした最後の姿になった。

(続く)

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