日本で無痛分娩の普及が遅れている理由 我慢するのが美徳の文化、分散している分娩施設......

東京都が最大10万円の助成を始める無痛分娩。なぜ日本での普及は遅れているのでしょうか?
岩永直子 2025.01.31
誰でも

東京都が10月から最大10万円の費用を助成すると発表した無痛分娩。

麻酔を使って出産の痛みを和らげる方法だが、海外に比べ、日本は普及が遅れている。

なぜなのか。希望する人が受けられるようになるには何が必要か?

無痛分娩に詳しい、日本産科麻酔科学会副理事長、東京麻酔科医会の無痛分娩ワーキンググループ責任者で、昭和大学麻酔科教授の加藤里絵さんに前編に引き続き、話を聞いた。

「安全な無痛分娩を広めたい。東京都の政策は、そのためのチャンスでもある」と話す加藤里絵さん(撮影・岩永直子)

「安全な無痛分娩を広めたい。東京都の政策は、そのためのチャンスでもある」と話す加藤里絵さん(撮影・岩永直子)

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麻酔科医が東京に流入することで、他県が不足する可能性は?

——東京都での助成事業なので、分娩施設がこれを麻酔科医を増やすチャンスにしようと他県から麻酔科医をスカウトして、他県での不足を招くのではないかと懸念する声も聞かれます。

都内の分娩施設がとても高い給料を支払ったりすると、そんなことが起こるかもしれませんが、考えにくいと思っています。

無痛分娩を提供できる麻酔科医も現状、たくさんはいません。麻酔科専門医になるための教育の中で、無痛分娩を経験しなければならない要件もありません。

知識としては少しずつ広がってきていますが、知識があったからといってできるわけでもありません。経験のある医師の下で実際に訓練することが必要です。

ただ、産婦さんはこの助成事業をきっかけに里帰り出産をやめて東京で出産しようと思うかもしれません。それでも無痛分娩の数は増やせないのです。産婦さんには申し訳ないのですが。

訓練なしで無痛分娩に参入する危険性

——金儲けを狙った分娩施設が専門外の医師を雇うようになって、安全性が低下する可能性を指摘する声もあります。

専門外の医師が無痛分娩の分娩管理をできるわけではないし、硬膜外鎮痛もできるわけではありません。良識のある施設であれば、無痛分娩を行うために専門外の医師を雇わないのではないでしょうか。

——我々が一番怖いのは、東京都の助成で急に増えて安全性が低下することです。知識や経験が不足しているのに参入する医療者が増えることを危惧しています。

JALA(無痛分娩関係学会・団体連絡協議会)が取り組んでいるのは、無痛分娩の麻酔における安全対策です。麻酔合併症の予防法、実際に合併症が起きて呼吸が止まってしまったときの人工呼吸法を学ぶための講習会があります。この講習会を受けることも、無痛分娩の安全を確保するための「自主点検表」のチェック項目の一つになっています。

——東京都から助成金が出るからといって、安易に経験のない医師が麻酔をするのは危険ですね。

我々麻酔科医は、麻酔をやったことで治療が必要な状況になってはいけないと考えるので、合併症や副作用に対してすごく敏感です。

極端な話、無痛分娩はなくても分娩は成り立ちます。それなのにわざわざ行う医療なのですから、それによって患者さんが亡くなるなんてあってはならない。それが患者さんの安全を守る麻酔科医の考え方です。硬膜外鎮痛は、そのような意識の下で行うべきだと私は思います。

安易に参入する医師はその意識が理解できていないのかなと思います。

日本で無痛分娩の普及が遅れている理由

——ところで、どれぐらいの産婦が無痛分娩を受けているのでしょう?

日本では2023年で11.6%と増えてはきているものの、まだ少ないです。

一方、フィンランド(89%)やフランス(82.2%)、アメリカ(73.1%)は多く、カナダ(57.8%)、イギリス(60%)、スウェーデン(66.1%)、ベルギー(68%)などでも普及が進んでいます。イタリアやドイツはヨーロッパの中でも20〜30%程度と少ないのですが、日本はそれに比べてもまだ少ないですね。

——なぜ日本で普及が遅れているのでしょうね。

医療的な要素と社会的・文化的要素と両方が影響していると思います。

日本には「我慢することが美徳」という文化がまだあるし、「お腹を痛めた子」という言葉を10年ぐらい前までよく聞きました。無痛分娩は「贅沢品」という意識も一部に残っています。もしかしたら無痛分娩ができないからお互いに励まし合っていたのかもしれませんが、それが無痛分娩を行うための医療体制の整備の遅れにも関わってきたのかもしれません。

日本では地元の親しみのある産院で産むという感覚が強いですが、欧米では大規模施設へ医療スタッフを集中させる集約化が進んでいます。人材も豊富に集められ、麻酔科医もいて、無痛分娩もできてきたのでしょう。

もちろん日本の体制は、妊婦にとってアクセスが良いメリットがあって、安心につながっているのも事実でしょう。それでも日本のように小さな分娩施設が分散して集約化が進まない国では、産科医療に関わる麻酔科医を配置することは難しいので、無痛分娩も普及してこなかったのだと思います。

今、麻酔科医が無痛分娩を担当する場合、一人の麻酔科医が一人の産婦さんの無痛分娩を行っている場合が多いと思います。しかし麻酔科医が不足している状況ではそれはもったいない。

一人の麻酔科医が、助産師や看護師の力を借りながら複数の産婦の無痛分娩をみる環境が整わないと、件数を増やすのは難しいと私自身は考えています。

——海外では、複数の分娩室を一人の麻酔科医が並行して診ていく感じなのでしょうか?

私が過去に訪れた中で一番大きな分娩施設はシカゴのノースウェスタン大学で、1年間で1万超の分娩をしていました。昭和大の10倍ぐらいです。シカゴのその病院では、分娩室が33あり、数人の麻酔科医が分娩病棟に常駐し、掛け持ちで複数の産婦を診ていました。

日本でも無痛分娩を増やしたいなら、集約化を進めないと難しいかもしれません。

——それにしてもお産については激しい痛みを我慢するのが当たり前だという感覚があるのが解せません。女性の痛みが軽視されるジェンダーの問題が背景にある気がします。

きっとそうですね。女性の地位が日本で低いことはおそらく背景にあると思います。

もちろん「無痛分娩はなくていい」という人もいます。そういう方には必要ないのですが、希望する人に提供できるようにしたい。欧米といった先進国だけでなく、世界の医療を見渡す世界保健機関(WHO)も、健康な産婦が産痛緩和を求めたときには硬膜外鎮痛を提供することを推奨しているんです。

海外からですが、無痛分娩をした方が母体の重症化を減らせるというデータが出つつあります。 特に元々合併症を持っている人に関してはそうだ、というデータです。

考察として、重症化の原因の一つである産後出血を早く見つけることができて、対処も早くできることが影響していると言われています。子宮の奥の方から出血している時に見つけるのは大変だし、痛い。

でも無痛分娩をしていれば、痛くないし、出血しているところを縫うときにも痛くないから縫いやすい。無痛分娩では血圧計や心電図などでお母さんの状態をモニターしたり、医療スタッフが訪問する回数が増えやすいので、問題を早く見つけることができるとも考えられます。

安全に無痛分娩を広げるチャンスでもある

——先生後自身は東京都の助成は、無痛分娩が広がるチャンスと考えているのでしょうか?

助成金制度のない今でも、近くに無痛分娩ができる施設がないというお母さんたちがいます。それなのに助成金制度が始まったら、せっかく無痛分娩を希望してもできない人が増えてしまうという危惧があります。

一方で、無痛分娩への関心が少なかった人が無痛分娩への理解を深めてくれる機会になるのではないかと思います。 無痛分娩が贅沢品と考える人も減って来ていますし、女性の地位も上がってきていて女性が分娩のスタイルを選びやすくなっている今、無痛分娩がクローズアップされることは無痛分娩が広がるチャンスだと思います。

麻酔科医の中にも無痛分娩に興味を持つ人は増えてきています。 そして無痛分娩を希望してもできない妊婦さんが増えてしまったら、どうしたら妊婦さんの期待に応えられるのか、一緒に考える機会にしたいですね。

安全に行うために必要なことは?

——やり方によっては日本で無痛分娩が普及する第一歩になるかもしれないこの政策ですが、先生方がこの政策に望むことは何ですか?

まずは安全に行われることです。無痛分娩の数が増えないとしても安全に行われることが何よりも大切です。

妊婦さんにも賢くなってほしい。分娩施設を賢く選択してほしいです。安全を守るための自主点検表の内容は、無痛分娩を実施する施設のウェブサイトで公開されています。

一般の方が一つ一つ項目を見るのは難しいかもしれません。だけど、無痛分娩を考えている妊婦さんはちゃんと見て、安全性も検討してほしいなと思います。

——具体的にどこを見たら、安全性が高いとわかりますか?

分娩施設を選ぶときには快適さも大事ですよね。建物がきれいさとか、食事が美味しさとか。 安全な体制は、急変時の対応が適切にできそうかなという視点で考えてみてもらえればと思います。医療スタッフの配置、医療機器の設置、麻酔担当者でしょうか。それから学会などにきちんと事例報告をしていることも大切です。

安全性が確保できるようになったら、次は鎮痛の質を上げていきたいです。JALAの自主点検票は鎮痛の質に言及はありません。鎮痛の質も、施設によってバラつきが大きいです。

——「鎮痛の質」とは?

鎮痛の質とは、どのくらい痛みを取ることができるかです。

硬膜外鎮痛では分娩が進みにくくなることがあるため、分娩への影響を避けるためにあえて十分に局所麻酔薬を投与しない施設もあります。その方針を伝えるために、「無痛分娩」でなく「和痛分娩」という言葉を使う施設もあります。お産の最後のほうで、鎮痛薬の投与を止める施設もあると聞きます。

さらに硬膜外鎮痛は硬膜外にカテーテルを入れて決められた薬剤を投与すれば十分な鎮痛効果が得られるというわけではありません。鎮痛効果が足りなかったり、左右差が出たりすることもあります。

その場合は硬膜外カテーテルの位置を調節したり、入れ替えをしたり、あるいは鎮痛薬の追加をすると、鎮痛効果が良くなることが多いです。こんなふうに、お産の経過中の細かな調整が産婦さんにとって満足できる鎮痛効果につながります。

都や国への要望は?

——都への要望はありますか?

東京都のアンケート結果では、出産した女性の6割が無痛分娩を希望していたのに、そのうち半分ぐらいだけしか無痛分娩ができなかったと聞きました。できなかった理由としては、「費用が高い」「安全性に不安がある」「近所に無痛分娩をしている施設がない」という声が多かったようです。

東京都は無痛分娩ができない理由を減らそうしているのだと思います。 今回の助成金制度で費用面について解決しようとしています。

安全面については、無痛分娩施設の基準をしっかり設けて、また無痛分娩を担当する医療スタッフの質が保たれるような制度を要望します。安全のための制度を実行するためには分娩施設側へのサポートも必要です。

無痛分娩を行う施設を増やすことはさらに難しいのですが、無痛分娩の供給を増やすためには、医療機関への助成も欠かせません。

10月から助成金の制度が始まったら無痛分娩を受けられる妊婦さんが増えるのか、増えないとしたら何が次の優先課題なのかが明確になってくるはずです。課題を解決するために対策を立て、無痛分娩体制を整えるための支援をお願いしたいです。

——国には何を望みますか?

今回の事業は東京という一都市で行われるものですが、他の地域にも広がりうる事業と考えています。

また無痛分娩の保険収載化の議論も一部にあります。保険収載になるとすれば、国全体の事業です。まずは安全性を保つために国として一定の施設や提供者の基準を作っていく必要があります。

無痛分娩を増やす方法の一つは、分娩施設の集約化です。厚労省の第8次医療計画では、基幹施設を中心とした医療機関の集約化を行っていくことになっていますが、無痛分娩についても集約化をしていくのか明確にしていってほしいです。

それから、今は都心部で麻酔科を目指す医師の数を制限する制度があります。シーリング制度と呼ばれます。不足している麻酔科医の人数を少しでも増やすそうとするのであれば、このシーリング制度は止めてほしいです。

(終わり)

【加藤里絵(かとう・りえ)】昭和大学医学部麻酔科学講座教授、日本産科麻酔学会副理事長

1992年、千葉大学医学部卒業。同大麻酔科と関連病院で研修し、2000年、英国オクスフォード大学臨床医学部博士課程修了。千葉大学大学院医学研究院麻酔学領域、埼玉医科大学総合医療センター総合周産期母子医療センター周産期麻酔部門、国立病院機構千葉医療センター麻酔科、東京女子医科大学附属八千代医療センター麻酔科などを経て、2010年、北里大学医学部麻酔科学教室准教授、13年、同大医学部附属新世紀医療開発センター周生期麻酔学准教授を歴任。2018年より昭和大学医学部麻酔科学講座教授に就任した。日本産科麻酔学会副理事長、東京麻酔科医会東京都無痛分娩ワーキンググループ長などを務め、安全な無痛分娩の普及に尽力している。

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